家事育児専念は「勤労の義務」違反?
以前、このくるみさんという方の記事がピックアップされて話題になってました。話題といっても賛否両論で、どちらかというと炎上気味になってた感もあります。
育児支援が充実している住民税非課税世帯になるべく、あえて低所得層になることを狙って子育てするのがいいんじゃないかというくるみさんの提案(家族のためにこそ「働かない」という選択)に、「ずるい」と反発を覚えた人たちから非難囂々であったという感じです。(ちなみに現状では非課税になる収入は超えているらしい)
立場的には、不動産投資による所得確保と、ミニマリズム的生活による消費削減を軸に生活を維持しようとする点で、いわゆる「リーンFIRE」系統のライフスタイルを志向していらっしゃると言えます。
全体的に計算高い感じは少々FIRE派らしい「自助(自力救済)っぽさ」があるので、公助としての万人救済を志向するベーシックインカム(BI)派は鼻白む人もいるかもわかりません。(採用されてる「ヤドカリ投資」のスキームも正直けっこうリスキーだなあと個人的には感じます)
ただ、仕事に紐付かない生活支援の必要性を重要視してる点ではBI派にも賛同できるところがあるかと。
で、この方に対する批判として面白かったのが「憲法が定める勤労の義務に反してる」というものです。
住民税非課税を狙うためにわざと働かないことを選ぶのは「勤労の義務」違反であるということですね。
「勤労の義務」。みなさんも昔学校かなんかで見覚えのあるはずの、この憲法の条文ですね。
こうした「勤労の義務に反してるぞ」という批判に対しては、くるみさんご本人もブログで軽く反論をされているのですが、
今回は江草も勝手にしゃしゃり出て、この「勤労の義務」問題を考えてみたいなと思った次第です。
くるみさんの反論もまあおかしくはないと思うんですが、もうちょっと踏み込める話なんじゃないかなあと江草は思います。
本当は最も強調すべきポイントは、「不動産業も職業だ」とか「ブログ収入も副業だ」とかのところではなくって、めちゃ軽く一文で済まされてる
ここだと思うんですね。
そう。
「家事育児してたら十分働いてるじゃん」というところこそをここは強調すべきなんじゃないかなと。
そもそも「育児するために働かないことを選ぶなんて国民の勤労の義務に反してるぞ」として、くるみさん批判をする人は、誰もが知ってるはずの歴史的事実をこってり忘れています。
それは、専業主婦として家事育児を専従的に担っていた人たちが国民の半数に迫るレベルでずっと存在してきていたということです。彼女たちはまさに家事育児をしていて、いわゆる賃金労働的な意味での仕事はしていなかったわけです。そしてそれは世間一般的に問題が無いものとして受け入れられていました(少なくとも当時は)。
それとも何でしょう。「専業主婦の役割を担っていた彼女たちは国民の義務に反していた非国民であった」とでも言うのでしょうか。国民の半数レベルが当たり前のように憲法の定める「勤労の義務」を破戒し続けていた非国民であったと?
そのようにみなすのは、単純に失礼であるだけでなく、妥当性にも欠くものです。
家事育児を担っているというのは、それだけでひとつの社会的役割を果たしていたと長らく判断されてきた。この歴史的経緯を無視していきなり「勤労の義務に反してるぞ」とするのは無茶があります。
もちろん、過去の慣習や常識を根拠に今でもそうあるべきとする保守的な態度が必ずしも正しいとは言えません。奴隷制度が慣習的に常識として受け入れられていた時代があったから今も奴隷制度を続けることが受け入れられるべきだとならないのと同じです。
だから、「過去には専業主婦は勤労の義務の問題を問われることはなかったが、今やそれでは勤労の義務に抵触する問題があると考え方を見直すべきだ」とするなら、まあ一つの立場としては成り立ちうるとは思います。
ところが、まずそこまでの前提条件の確認もなく、ただ「勤労の義務に反してるぞ」とするばかりであれば、その歴史的経緯を踏まえた立場表明にもなってない段階に過ぎません。
(なお、勤労の義務を果たしてるかどうかの判定は世帯の中に稼いでる人が居るかどうかによると考える人もいるかもしれませんが、憲法の言及はわざわざ「すべて国民」についてとしているので、世帯単位ではなく国民各個人単位を評価対象として考えるべきでしょう)
そして、過去の常識を必ずしも保存すべきとは言えないのと同時に、必ずしも変えるべきとも言えません。当たり前のことですが、変えるべきか否かはその個別の内容次第なのです。さらに、たとえ「変えるべき」であるにしても、その変える方向性の妥当性も個別に検討が必要でしょう。
で、ご存じの通り、今や世の中は少子化問題で大騒ぎなわけです。
この状況下であえて「家事育児をしているだけでは勤労の義務を果たしてないと言うべきだ」という方向での価値観の見直しを訴えるというのは果たして妥当でしょうか。
むしろ逆なんじゃないですか?
「家事育児をしているのは十分に勤労してるよね」と積極的に賞賛する方向性に舵を切ってもいいぐらいなのでは?
なお、この辺の問題提起は、江草も過去にnoteでちょいちょい書いてます。
そして、これは(どこの馬の骨とも分からない)江草だけが言ってるわけではなく、しばしばいろんな人から言われていることでもあります。
いずれも、お金を稼ぐ仕事ばかりを「働いている」と認識して家事育児を担っている人を「働いていない」とみなす態度を批判しています。それは「生産性」や「お金」に隷従するようなものであると。
江草も同感です。
なんなら「勤労の義務」を定めた憲法の条文自体が、社会の実際をまるで見えていないとも言えましょう。
再掲しますが、「勤労の義務」を定めた憲法の文面はこうなっています。
実際の正確な法解釈は憲法学者さんじゃないと分からないところかもですが、②の項目があるせいで「勤労とは賃金労働(あるいはビジネス)をしてるかどうかのことである」というイメージはどうしても出てしまいますよね。
書籍『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』では、経済学の議論では家事や育児などのインフォーマルケアワーク(シャドウワーク)を担っていた女性たちの存在がすっぽり忘れられていることを批判されていました。
このことを踏まえると、経済学者よろしく、憲法を立案した人たちも残念ながら「家事や育児を担う人たちによって陰ながら社会が支えられていたこと」をこってり忘れていたんではないかと思わざるを得ません。
あえて露悪的に評価するならば、「すべて国民」と述べる時に、「女性(ないし家事育児担当の男性)を一人前の国民としてみなしてない」というアンコンシャスバイアスがあったんではないかとも邪推してしまいます。
だから、現代的な方向性で「勤労の義務」を改めて見直すとするならば、それは「育児家事は勤労の義務を果たしているとは言えない」という方向ではなく、むしろ逆に「育児家事はばっちり十分に勤労してるよね」という方向にするぐらいでちょうどいいかと思います。
あくまで個人の感想ですけれど。