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『ヒトラーのための虐殺会議』観たよ
たまたまPrime Videoを眺めていたら、気を引かれた映画がありまして、つい観てしまいました。
2022年ドイツのテレビ映画『ヒトラーのための虐殺会議』です。(日本では昨年劇場公開されてたよう)
とても穏やかでないタイトルですが、これは邦題で、ドイツ語の原題は"Die Wannseekonferenz"、直訳すればただの『ヴァンゼー会議』というタイトル。日本映画で言うと『清洲会議』みたいな感じのタイトルですね。無機質というか、物静かで地味なぐらいの原題です。(なお、邦題に名前があるにもかかわらず本作にヒトラーは全く出てきません)
ヴァンゼー会議とは1942年1月20日に行われた史実の会議です。ナチドイツ時代にベルリンの郊外にあるヴァン湖の湖畔で開かれた、ドイツの高官達によってユダヤ人問題の「最終的解決(すなわちホロコースト)」の計画を協議した会議として知られています。
この会議、実際に史料として議事録が残されていることから、それを基に映画化されたということのよう。つまり、(脚色は当然多々ありそうではあるものの)ノンフィクション的なドキュメンタリー的な要素がある歴史映画です。
以下、ネタバレ注意
感想を一言で言えば、なんというか、ほんと静かな恐ろしさがある映画でした。じわじわと来るタイプの映画です。
邦題でこそ禍々しいタイトルで注意喚起されてますけれど、この映画、形式的には全くもって穏やかなんですね。暴力シーンは皆無で、一滴の血さえ流れないし、兵器も死体も映りません。なんならこの映画、視聴対象年齢が「全年齢」ですからね。
さらに言えば、「ユダヤ人を殺すこと」も「特殊処理」という「クレンジングされた上品な呼称」を用いて議論されてます。多少、互いに嫌みを言い合うシーンはありますけれど、罵声や怒声もほぼありません。
嫌になるぐらい穏やかなんです。
この映画で特徴的なのは、2時間弱の尺の中で、男達がただただ会議をし続けるだけの映画であることです。厳密に言えば、会議前後の到着や解散シーンや休憩時間のシーンがあるので、全てが会議ではないのですが、本当にほぼほぼ会議です。(会議だけで話が進む密室劇という意味では『十二人の怒れる男』を彷彿とさせますね。)
なので、普段仕事で会議が多い方なんかは、映画を観るプライベート時間でまで会議に参加させられてるような不思議な気分になるかもしれません。でも、この本当に日常的にどこにでもよくありそうな「タダの会議感」こそがこの映画の神髄なんですね。
見た目上はただの会議。参加者同士で「あいつは気に食わん」といがみあってたり、「うちの管轄に負担を押しつけるな」と押し問答していたり。計画がスムーズに採択されるように裏で根回しが行われていたり。現代日本でもそこかしこで行われてそうな会議の風景です。
ただ、そこで語られてる議題が「欧州のユダヤ人をどうやって処分するか」という信じられないぐらいに恐ろしい内容なのです。にもかかわらず、本当にただの会議が目の前で繰り広げられている。「あいつの席は下座にやっておけ」とかしょーもない些細な席順なんかで駆け引きしている。
しかし、この会議の結果、皆様ご存じの、アウシュビッツを始めとした強制収容所でのガスによる「効率的なユダヤ人抹殺計画」が承認されるのです。
この「タダの会議感」と「決定事項の恐ろしさ」のギャップに、「え、これで膨大な数の人々の運命が決せられちゃうの」と呆然とさせられるわけです。
映画は2時間弱の尺でしたが、実際のヴァンゼー会議も90分ぐらいだったらしいので、会議の進行時間としてもリアルです。「こんな短時間でこれが決まったのか」というあっけなさが恐ろしい。
会議の舞台も象徴的なんですよね。湖畔に建てられた豪邸で会議が行われていて、部屋や廊下などの佇まいが荘厳で立派なんです。コニャックやサーモンなどの飲食グルメも振る舞われて。湖も穏やかでキレイで、登場人物の一人が休憩時間中に湖を眺めながら「ここは平和だなあ」とつぶやく、という皮肉な演出もなされていました。協議されてる内容の恐ろしさと全く対照的な平穏すぎる舞台が、じわりと背筋を凍らせるんですね。
江草は未鑑賞なのですが、最近話題になっていた、アウシュビッツ強制収容所の隣で平和な生活を送る一家を描いた映画『関心領域』も、コンセプトに通ずるものを感じますね。
「地獄から隔離された天国」の矛盾の不協和音をあえて「地獄」の側を直接描き出さないことで表す。
幸いにも私たちは今「地獄」にはいない(少なくとも現代日本は相当に恵まれた環境でしょう)。でも、だからこそ、「地獄」を直接見せられただけでは、どこか心理的な距離があって他人事に感じてしまう。だから、逆に「天国」サイドからの視点で、この矛盾を味わわせる。本作『ヒトラーのための虐殺会議』と『関心領域』にはそうしたコンセプトを感じます。
で、これがまた恐ろしいのが、じゃあ会議に出てた人々がとんでもない悪魔たちだったかというと、それがまた必ずしもそうには見えないというところがあるんですね。
いや、これを言うと、最近逆に批判もされているアーレントの「悪の凡庸さ」の文脈になっちゃう点は留意しないといけないのですけど(本作にはまさにアイヒマンも登場してますし)、たとえば、自分が仮にその会議に参加させられていたとして、果たして止めることが出来ていたかと考えると、正直全く自信がありません。
会議の参加者には、確かに「絶対即座に抹殺すべし」みたいなタカ派もいましたが、その一方で「法を守るべきだ」と遵法精神に溢れる人もいれば、「人道的に行うべきではないか」と倫理を訴える人もいて、「女性秘書の福利厚生を充実させるべきだ」とかそんな職場環境改善の話もされていて、「奥様おめでたと聞きましたよ。また遊びに行きますね」みたいなプライベートな会話までされてる。「熟練工のユダヤ人を殺されたら軍事生産が立ちゆきません」と経済面から反論する人もいて。
なんか変な意味でとことん誰もが平凡に人間的なんですよね。
しかし、それでも会議中に「ユダヤ人を何とかして処分する」という方向性だけは決して疑われることはない。そこだけは全然揺るがない。
「法を守る」だって本当にただその人にとって大切な「法」を守りたいだけで別にユダヤ人を守ろうとしているわけではなかったり、「人道的に」と訴えた人だって「抹殺計画を実行する現場のドイツ人たちの精神負担を緩和すべき」という意味の「倫理」だったりして、「もしかして少しぐらいはちゃんと反対し続ける人がいるんじゃないか」という観賞者の期待は見事に裏切られることになります。
これも江草は未読で、あくまで読者のレビューを拝見しただけなのですけど、『組織不正はいつも正しい』という本の主旨にも通ずるものがあるような印象を受けました。
その組織において一度「正しい」とされてしまったことは、もう変わらない。この映画で言えばナチドイツという巨大組織の「ユダヤ人は悪であり抹殺すべき」という「正しさ」は、その内部の誰であってももうひっくり返すことができない。それは大前提として、「で、どう具体的に進めるか」という細かい議論に終始するばかりと。
だから、たとえ、自分がそこにいたとしてひっくり返しようがあるのか。
多分もっと前の段階か、もっとメタなシステム的なレベルでどうにかしないと止めようがなさそう、とそんな無力感に襲われました。
ほんと、すごく静かに恐ろしい映画だったなと思います。
なお、会議の参加者のその後の運命をWikipediaなどで追ってみたら、いろいろな最期を遂げていて、それはそれで歴史の無情さを感じさせられました。
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