『嫉妬論』読んだよ
山本圭『嫉妬論~民主社会に渦巻く情念を解剖する~』を読みました。
Amazonを回遊していたら、とてもおもしろそうなテーマの書籍で、つい衝動買い。
早速読みましたが、これは非常に良かったですね。
「嫉妬」について、ここまでとことん分析されてるのは、ありそうでなかった感触があります。
「嫉妬とは何か」という基本を丁寧に押さえてくださってることはもちろんのこと、アリストテレスからロールズまで、過去の思想家たちがどのように嫉妬について語ってきたかの思想史の紹介と分析は、本書における特筆すべき仕事と思われます。
嫉妬だけについて語ってる思想家はおそらく少ないので(おおむね本論のついでに嫉妬について語るぐらいでしょう)、各々の思想家の嫉妬についての言説だけを収集整理するのは絶対に大変だったと思うのですが、それを実際に一気に串刺しで色んな方の嫉妬論のエッセンスが概観できるようにしてくれたのは圧巻の一言です。素晴らしい。(なんなら『ブルシット・ジョブ』の「道徳羨望(moral envy)」まで出てくる幅広いセレクションに驚きました)
これらの分析によって、いかに人類にとって嫉妬が普遍的な情念であったかが明らかにされるとともに、読者自身も自分の中にある嫉妬心に自然と向き合わされることになるという、なかなかに恐ろしい一冊となっています。(なんなら著者自身も執筆を通して向き合わざるを得なかったそうです)
なにせ、嫉妬ってめちゃくちゃネガティブなイメージあるじゃないですか。
本書の整理に頼りますが、私たちは「誰かを嫉妬している」と周りから思われたくないし、なんなら自分自身でも「自分が誰かを嫉妬している」ということを認めたくない。「嫉妬している」という状態は自分自身にも周りにも決してそう思われてはならないタブーとなっている。
そして、自分が嫉妬する側に立つこともさることながら、嫉妬される側に立つのも、ほんとどんな仕打ちを受けるか分からないとてつもない恐怖があります。
それで、古今東西で、嫉妬することからも、嫉妬されることからも、とにかく逃げ続ける人々の姿が、本書では見事に描きだされています。
それは同時に、読者自身もまず例外ではありえないことを突きつけてくるものでもあります。読者もいかにこれまで自身の「嫉妬」に対して向き合わず、見て見ぬふりをしてきたか痛感される仕掛けなわけです。
著者は七つの大罪の中でも最大級に嫌われてるのがこの「嫉妬」ではないかと言われるのですが、本書の整理を踏まえると、確かにそうかもなあとうなづかされます。
で、本書の特徴はこの嫉妬論を社会心理学的な文脈ではなく、政治思想学的な文脈でとりあげられてることですね。「嫉妬」の扱いは実に政治において検討すべき現実的課題であるというわけです。
考えてみるに、(タブー過ぎるがために)あんまり表立っては言われないけれど、各種政策に対するあれこれの言説が嫉妬心に起因しているというのは、実際とてもありうる話なんですよね。
生活保護に対して「働いてないのにずるい」として批判されるのも、ある種の嫉妬心であることは否めませんし、累進課税制度についても「優秀な者や金持ちに対する嫉妬だ」と片付ける向きもあるでしょう。
あるいは、最近のホットトピックで言えば、各種子育て支援策も「既に子どもを持ってる世帯にしかメリットがない」として根強い批判がありますが、これも「結婚し子どもを持てた世帯」に対する嫉妬心が背景にないかと言えば、ぶっちゃけあるでしょう。
さらに言えば、昨今の東大の学費値上げに関する論争も、まあやっぱり嫉妬心が渦巻いてると言わざるをえないところがあります。
こうした例を聞いて「そんなことない、それは嫉妬なんかではない!公正で平等な正義のための批判だ!」と反発心を覚える人も少なからずいらっしゃるかと思いますが、そうした反応こそがまさに本書の嫉妬論が描き出してるところなんですよね。
「嫉妬してるんじゃないの?」と疑われると「そうではない!」と必ず否定せざるにはいられない。これぞ、嫉妬が私たちにとって最大級のタブーであることのひとつの証左であるわけです。そしてまた、そうした嫉妬心の否認が、その末に「正義」の形を取るのはとても典型的な現象であります。
実際に、リベラリズムの大家であるロールズはまさに『正義論』によって嫉妬の解消(ないし緩和)を図ったわけです。(大著の『正義論』の中には嫉妬についての節がわざわざ用意されてるとのこと)
しかし、そのロールズの試みは失敗していると著者は厳しく指摘しています。
ロールズが理想として描いたような清く平等で公正なリベラル社会が、それこそ現在の境遇の良し悪しが各々の能力や努力の多寡に直接的に由来するものとして解釈されてしまうディストピア的なメリトクラシー(能力主義)社会をもたらす(そして現にもたらしつつある)問題は、サンデルなどの批判もあって、だいぶ人々の認知として広まってきたところがあります。
メリトクラシー社会では人々の嫉妬心が抑えられるどころか、むしろ助長されてる向きさえあります。
どうしてこういうことになるかというと、著者によれば、リベラル左派は「人々の格差がなくなったり平等になったりすると嫉妬がなくなる」という基本的な誤解をしていると。そうではなく、むしろ、皆が平等である時にこそ私たちの中の嫉妬心はより燃えたぎるのです。
それは、比較可能な「自分に似た相手」に自分にはない幸運や幸福が与えられたときにこそ「なぜ自分ではなくあいつなんだ」という嫉妬心が芽生えるからです。この「比較可能な相手」という嫉妬の要件はアリストテレスも指摘しているぐらい由緒正しきものです。たとえば、相手が全く身分が違ったり属性が違いすぎる相手だと、比較が難しくなって、かえって嫉妬心が生まれない。嫉妬心は「平等の上の些細な差異」が大好物なんですね。
この嫉妬の性質を踏まえた上で、徹底的に嫉妬を社会から排除しようとするとどういう方策がとり得るかと言えば、大きく2パターンに分けられるでしょう。(なお、この辺はあくまで著者による分析ではなく本書に着想を得た江草独自の勝手な考察色が強い箇所ですのでご注意ください)
ひとつは「些細な差異も存在させないこと」。全ての人が全く均質であれば、嫉妬にかられることもなくなりますが、これは人々の多様性を一切失ったディストピア的なところがあるでしょう。平等をモットーとする左派のコミュニズム的コミュニティが結局は窮屈なものになりがちなのはこのように嫉妬心の解消のために人々に同質性を求める向きが強くなるからと思われます。
もうひとつは「不平等を肯定すること」。要するに身分制度を構築することですね。今度は右派がこの方策を採りがちです。身分が違うと思い知らせて、身分の優劣を固定化すれば、比較が困難となって、自身に対する嫉妬心を解除することができるわけです。
さすがに現代社会においては表だっては「身分制」とは言わないまでも、済む地域であったり、学歴であったり、正社員(or非正規)であったり、資格であったり、年収の多寡等々によって、固定的な身分を人々の間で振り分けようとする仕掛けはそこかしこに見られます。なんなら、昨今のリベラル化に対する反動から人種や性別などに基づいた伝統的な身分優位性を取り戻そうとする向きもあります。
アンチデモクラシーな右派リバタリアンたちは、実のところ自分が既に得た(キャリアや能力や金銭面での)優位性を他者からの嫉妬心から守ろうとしてると考えれば、その行為の意図も理解しやすくなるように思います。ぶっちゃけ、彼らの本音としては「なんで優秀で努力もした俺様がそうでない劣ったやつらの嫉妬に気を使って分け前を分配しなきゃならんのだ」というところがあるでしょう。
著者も右派(正確には「保守的なイデオローグ」)が「大衆の嫉妬」を持ち出すレトリックを多用することに注意を促していましたけれど、こうした嫉妬レトリック多用の姿は裏を返せば右派もなんとしてでも嫉妬から逃れようと腐心していることの表れであるでしょう。
で、こうして概括してきてお分かりの通り、本書の立ち位置として左派にも右派にも釘を刺してらっしゃるんですね。どっちにも与することなく、双方の「嫉妬への向き合い方」を批判的に取りあげている形です。
なんなら、「他人と自分を比較しないようにしよう」とか「あなたはあなたのままでいい」みたいな自己啓発本にありがちな嫉妬対処法にも著者は懐疑的です。
つまり、著者は、そんな風に「嫉妬をなくそう」とか「見て見ぬふりをする」というのではなく、嫉妬は我々にとってどうしても避けがたい存在であることを認め向き合っていこうという立場なんですね。
そして、本書ではこうした右派左派に対する批判を経て、最終的に「民主主義こそ嫉妬と不可分なのである」という刺激的な指摘がなされます。この主張に導かれるカタルシスが本書の最大の魅力であり功績ですね。これはほんとシビれました。
江草の雑な解説ではその魅力と丁寧な説得性を大幅に減じてしまうのは分かりつつも、話の流れ上、ざっくりどういうことかをお伝えしますと、先ほどとりあげた嫉妬を招く「平等の上の差異」という条件は、実のところそっくりそのまま民主主義の性質でもあるというわけなんですね。
民主主義において誰もが等しく政治参加するという政治参加の平等性は不可欠な要素ですし、そして各々が異なる存在であるからこそ合議したり意見を集約することに意味がでてきます(全ての国民が均質な存在であったらそれはもはや全体主義でしょう)。すなわち、民主社会は「平等の上での差異」というまさしく嫉妬心の培地のようなもので、嫉妬心が生まれることは避けられないというわけです。(それは陶片追放制度に見られたように古代アテネ民主政でも避けられなかった)
ここで嫉妬を「あってはならないもの」として無理矢理排除しようとすれば、先に見た一部の右派や左派が目指すような「平等」かあるいは「差異」が失われる、それはそれでどうなのと思わざるを得ない社会に至りかねません。
だから、もし民主社会を志向するのであれば、私たちは嫉妬に向き合わざるをえないと、そういうことになるわけです。つまり、自分やあるいは社会の中に渦巻く嫉妬に関わることは民主主義において避けられないのです。極論、嫉妬の存在を否定することは民主主義を否定することでもあるのでしょう。
まあ、先ほども書いたように、嫉妬というのはどうしても認めがたい負のイメージが大変に強い情感です。しかし、それでもそれが私たちの社会が民主主義社会であるがゆえのひとつの発現形態であると考えたならば、ちょっとはその存在にも納得がいくのではないでしょうか。
もっとも、互いに対する嫉妬心が行きすぎると、どうにもギスギスして過ごしにくい社会になりますから、なにも著者もいくらでも嫉妬が蔓延して良いぞと手放しで容認しているわけではありません。あくまで、民主社会の必要悪的な存在として、モヤモヤしながらも致し方なく認めている感じです。
なので、著者も最終章で「私たちはどのように嫉妬心とかかわっていくべきか」という前向きな提言もされています。(また嫉妬の良い側面も提示されてます)
この提言こそ、ただここでポンと提示しても刺さらないでしょうから、提示することはあえて差し控えますが、本書を通して読むとなかなかじんわりと味わい深く感じられる提言となっています。
言ってしまえば、まあ、そんなスパッと私たちが嫉妬心から離れられるような斬新な解決策が提言されてるわけではありません。それが出来ないということを本書は通じて繰り返し語られてるわけですから当然なのですけれど、なんともスッキリ爽やかにとはいかないのですね。
ただ、このモヤモヤした着地点こそが大事なのでしょう。現実的でバランスの取れた提言というのは、見ようによっては陳腐にも映るものです。
たとえば中江兆民『三酔人経綸問答』において、それぞれ右派と左派の理想論を語る二人の論客に対して現実路線の方策を語った南海先生が、二人から「陳腐だ」と笑われる一幕があります。
それと同様に、でもこのスッキリしないモヤモヤとしたところが残る一見陳腐な提言こそが実際には真に実直な態度なのではないかと、そう思わされるのです。
いやほんと、こんな感じで、いかに嫉妬心が私たちの社会や政治に強く関わっているかに目を開かせてくれる一冊で、とてもオススメです。
めちゃ面白かったです。
こっからは完全に蛇足的な余談ですけれど、こうした嫉妬みたいな不快な対象に対して、消し去ったり逃れたりしようとするのではなく、必ず存在するものとして受け入れる方が良いというのは、なんとなく仏教的な印象も抱きますね。
苦に対して、逃れようとすると余計に苦しくなる「二の矢」を受けてしまう。逆にむしろ苦の存在を受け入れて観察する方が苦しくなくなったりすると。
だから、嫉妬も「自分が嫉妬してること」を認めずに逃げ回るよりも、「嫉妬してるなあ」と観察する方が、案外落ち着くのかもしれません。
そして、「嫉妬なき正義」はむしろ嫉妬というスティグマから逃れようとするがあまりに理想ごと歪んで不正義に陥りやすいので、あえて「嫉妬含みの正義」として進む方がかえって適切な正義の実現に結びつくのかなとも。
あ、ここまで来て今さら補足しますが、本書はもちろん全ての正義は嫉妬心によるものだからダメだなどと言ってるものではないですからね。そこんとこ誤解されないようよろしくお願いします。
また、本稿は書籍の内容だけでなく多分に江草の考えや感想も入り交じってしまっているので(ちゃんと整理分別して書けない江草の筆力の無さによるもので申し訳ありません)、本稿の内容が書籍の要約かのように誤解されないよう何卒お願いいたします。
著者の珠玉の嫉妬論を正確に把握されるためにも、本稿で「嫉妬」に興味を持たれた方は、ぜひとも書籍を手に取っていただけますようお願いいたします。