『「人口ゼロ」の資本論』読んだよ
大西広『「人口ゼロ」の資本論 持続不可能になった資本主義』読みました。
きっかけは、ラジオでたまたま著者の大西氏が少子化問題について解説されていたのを聴いたことです。江草は最近人口問題に関心があるので、聴いた範囲では著者の思想の全貌がわからなかったのもあり、どれどれと手に取ってみたのでした。
人口問題を切り口としたマルクス経済学からの資本主義批判本
タイトルに「資本論」のワードが含まれてることから容易に推測できると思いますが、著者の大西氏はマルクス経済学を専門とする経済学者の方です。
まことに乱暴ながら一言で本書をまとめてしまうと、マルクス経済学の立場としての分析から、人口減少および少子化(ゆくゆくは人口ゼロに至るレベル)の元凶は資本主義にあるから、資本主義を抜本的にひっくり返さないといけないよということを主張されている本となります。
さすが「マルクス主義」だけあってやっぱり資本主義全否定です。ベストセラー『人新世の「資本論」』の斎藤幸平氏もそんな感じでしたね。
実際、資本主義は問題だらけですし、改革はめっちゃ要るとは思うのですけれど、マルクス主義系統の方々にありがちな、いきなり「資本主義は悪だ」的なところから入ったり、解説の流れの中でマルクス礼賛的なコメントが節々に入り込むのは、ちょっと鼻白んでしまうなというのが正直な感想です。
たとえばこんな感じ。
別に、この流れでマルクスとエンゲルスを出す必要がないのに、スルッと出てきちゃうんですよね。
江草も、いろいろ考えた結論として資本主義批判に至ることや、マルクスの仕事を踏まえて論考すること自体は全然問題ないと思うんですよ。経済を考える上でマルクスの業績はやはり大きいと思いますし。
ただ、最初から意気込みを隠しきれない感じでテンション高く出されると、読者としても「結論を先に決めて論考してるんじゃないか」という疑いを抱かないのは難しいです。マルクスにしたって、普通に論考の中で引用する形で参照すればいいだけであって、論考の中でマルクスという人物自身を持ち上げる必要はないでしょう。
それに当のマルクス研究者からでさえ、結論ありきの姿勢には批判の声が出ています。(ここのみ他書からの引用です)
良い指摘も多いけれど死角がある気がする
で、ようやく本題に入りますけれど、本書『「人口ゼロ」の資本論』においては、「労働者が搾取されてる」「経済格差が拡大している」「資本主義において人口ゼロが必然的に起こる」という主張がなされていくという展開を見せます。(「人口ゼロに向かうこと」を数理モデルで証明してるところは本書独特の仕事ですが、総じてまさに先ほどの批判で指摘されてるのと同類の主張なんですね)
なので「我々は資本主義を超克してヒトにちゃんと投資しないといけないのだ」というのが主な論旨になります。
これら「労働者搾取」「格差拡大」「人口ゼロ」は確かに実際に問題ですから、重要な指摘だと思います。
特に本書の、家事労働が軽視されてるとか、子供を育てるには都会のマンションの標準設定が狭すぎるとか、人口ゼロに向かう少子化問題が軽視されてるとかの指摘は本当賛同です。
ただ、江草個人的には、やっぱりいくつか本書では考慮されてない死角もあるかなと感じました。
資本主義では無理なのか
たとえば著者は資本主義だと格差が拡大するのが確定してるかのように語っているんですけれど、同時に、発展途上国と先進国の格差が急激に縮んでいることは認めているんですよね。
でも、発展途上国と先進国が統一の世界共産主義政府に支配された事実はなく、明らかにグローバル資本主義の賜物としての格差縮小なのですから、別に資本主義だから必ずしも格差が拡大するとは限らないわけです。(もちろん、この動向の副作用としての外部不経済の大問題があるのですが)
それにこの辺の外部不経済や格差拡大をもたらした資本主義の今までの在り方の反省は、資本主義のもとでの経営学や起業家の視点からでも次々と述べられており、いきなり資本主義全否定は早計なんではないかと思います。
あるいは、哲学者のマルクス・ガブリエル(こちらもマルクスさんですね)も新しい資本主義の形として倫理資本主義を提唱されています。
もっとも、こうした修正資本主義路線か共産主義路線かという議論は、NHK『欲望の資本主義2022』においてセドラチェク氏と斎藤幸平氏のディスカッションで大激論の末、結局平行線に終わってしまったトピックでもあり、典型的な「決着がつかない議論」ではあります。
ただ、私たちが今ここで課題としているのはあくまで人口減少問題であったはずで、その問題がいい具合に解消されるなら、言ってしまえば修正資本主義でも共産主義でも全く新たな経済思想でも何でも良いはずです。そこを先に「資本主義ではできっこない」(もしくは「共産主義ではできっこない」)と決めつけてしまえば、解決のための私たちの想像力と創造力をむしろ縛るものであり、危険なやり方でしょう。
だから「資本主義では無理」がどうも前景に出てきてしまっている著者の論考には個人的には危ういものを感じます。
資本家VS労働者?
あと、いまだに資本家と労働者の二項対立の構図で経済問題を描いてるのも、ちょっと気になりました。
例えば、こういう箇所。
これはどうにも腑に落ちません。
なぜなら、現代の労働者はほとんどホワイトカラージョブであり、それは人的資本(キャリア)を蓄えた「人的資本家」でもあるからです。
労働者でありかつ(人的および金融)資本家であるのが現代の都市部エリートです。そうした都市部のキャリアエリートと、地方住民やノンキャリアワーカーとの対立が鮮明になっている構図は、マイケル・リンド『新しい階級闘争』やマイケル・サンデル『実力も運のうち』等で次々と指摘されてるところです。
この観点を見落とすと議論が一気におかしくなります。かつての工場経営者みたいな資本家イメージを責め立てても、今やほとんどそういう人(ピュアな資本家)が資本家の主体ではないんですね。
むしろ、ほとんどの人がグラデーションはありつつも、「人的資本家」としての共犯者であり、同時に「労働者」としての被害者でもあるから、今の労働問題はややこしいのです。もはや、資本家VS労働者という簡単な二分構図には分けられません。
高等教育と人的資本向上が抱えるジレンマ
ところが、著者は本書の中で往々にして高等教育で個々人の生産性を高めることを肯定されています。
しかしそうした「高等教育で労働生産性を高めよう」とすることこそが「人的資本主義」の発想なので、いわば反資本主義を謳う共産主義者が「資本主義の一形態」を擁護してしまっている不思議な構図になってるんですね。(おそらく著者は「ヒトの外」にあるものだけを「危険な資本」とみなしているところがありそうです)
ここで、高等教育を受けた高度人材の仕事がどれほどの本質的価値(金銭的価値ではなく)を供出しているかについてもよく注視しないと、少子化問題の典型的な罠にハマると思います。今や、無形の生産物と無形の資本だらけなので、その価値の多寡は現実世界と無縁に(ないし弱影響下で)決まりがちだからです。
現在の高等教育が本質的な価値を付与できておらず、ただのキャリアアップのためのシグナリングと化しているという批判は実際にあります。
また、ノーベル賞受賞者のゴールディン氏も指摘されてる通り、高度人材を目指しキャリアアップを重視すればするほど、育児する暇も余裕もインセンティブも無くなっていく、これが今の世の中がハマってる罠です。
つまり、学歴シグナリングやキャリアアップが報われすぎるのが罠なんですね。だからこそ、学歴向上やキャリアアップを目指すトレードオフとして高学歴・高収入の世帯でさえ出産を手控えしています。(もっとも、この一方でノンキャリアワーカーが貧困に悩まされている結果、結婚出産どころではないこともご指摘通り事実でしょう)
著者は「高所得世帯しか子供を産めなくなってること」を批判されています。実際それは正しいですし、大問題なのですが、その肝心の豊かなはずの高所得世帯でさえ多産なわけではないことを見落としてはいけません。(だいたい豊かなはずの先進国から率先して低出生化が進んでるのですから少子化が豊かかどうかだけの問題ではないのは明らかです)
なので、「人口ゼロ」問題を語ってるところで「高度教育での人的資本の向上」を無邪気に肯定してしまうと、結局はこのキャリアアップと出産育児のジレンマから抜け出せてないと言わざるを得ません。この両者をどうバランスするかこそが一番難しいところなのに。
もっとも、誤解しないでいただきたいのは、江草は別に教育の意義を否定しているわけではないことです。むしろみんな生涯教育的に学び続ける方が良い社会になると思っています。だから教育格差の是正にも賛同します。
ただ、教育が生産性と紐づけて語られる時、「生産性向上につながらない教育は不要だ」などと教育の本質が歪められがちなので、それを懸念しているだけです。
(ひょっとすると、徹底した共産主義的に、著者は高度人材であろうとも他の労働者と平等に全く等しい報酬を与えることをイメージされてるのかもしれませんが、この辺の具体的なビジョンは明示されてなかったように思います)
なお、そもそもヒトの仕事を「知恵を絞ることこそが業務」のように頭脳偏重の捉え方をしてる点も、デイヴィッド・グッドハート『頭 手 心』で批判されてることも付記しておきます。仕事は頭脳以外にも手や心を使う側面があることを軽視してはなりません。
労働は快適化しつつある
あと、「労働者が搾取されてる」の連呼で、労働全般があたかもしんどいものであるとして描かれてるのもちょっと微妙かなと感じました。
もちろん3K(汚い、きつい、給料安い)みたいなシット・ジョブがまだまだいっぱいあって、労働環境や待遇の問題があるのは事実です。
しかし、働き方改革やハラスメント防止が国を挙げて進められていることからも分かるように、実際には仕事全般としては程々に楽でやりがいを持てるように快適化が進んではいます。(もっともそれは実は「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」と表裏一体でもありますが今回はこの話は割愛)
だからこそ、家庭よりも職場が選ばれ続けており、ために出産育児が選好されなくなってきていることが重要です。
たとえばホックシールド『タイムバインド』では、いわゆる単純作業のシット・ジョブ的な仕事でさえも、家庭に比べれば居心地がいいとして、仕事のシフトを自ら進んでガンガンに入れる労働者の姿が描かれています。
そして、『2050年 世界人口大減少』では、働くことで自由と自己実現の機会を得ようとして脱法的不妊手術を自主的に強行してまで家庭から逃れ仕事を目指す世界各地の女性たちの姿が克明に取材されています。
つまり、労働は確かにしんどいものではあるのですけれど、それでも「家庭よりはマシ」という評価が広くなされてしまっていることが、少子化の促進因子になってるのではないかと。
労働環境の問題を改善するのはもちろんいいことですが、今はそれに追随するぐらいには大胆に家事育児の環境や体験を大幅に支援しないといけないところです。
だから、あまりに「しんどい労働をなんとかしよう」という労働問題の方ばかり注視すると、こと少子化対策という問題の枠組みにおいては大して解決の方向には向かわないのではないでしょうか(みな家庭から逃れ仕事やキャリアアップにいそしむばかりになるので)。
たとえば、Googleの有名な20%ルールの話をされてるこの箇所。
この20%ルールの発想自体は江草も大好きなのですが、ただ、これがあくまで仕事の枠組みの中で行われてることに注意が必要でしょう。だってこの20%の時間は「自身のプロジェクト」に充てているのであって、育児や家事に充てているわけではないのですから。
家庭環境を放置したまま、こうした居心地がいい職場が増えれば増えるほど、20%ルールなんて当然無いどころか労働基準法の保護もなく24時間365日オンコールみたいな状況に陥る過酷な家事労働を選ぶ人は少なくなるでしょう。そして、先ほどあげた二冊のように現にそういう選好現象が起きているのではないかと疑われているわけです。
職場は公に顔が出ている「働かせる者(雇用主・企業)」がいますから、彼らにアプローチすれば「こき使う働かせ方」から「優しい働かせ方」に変えることができます。そしてそれはまだまだ不十分ではあるものの着実に進みつつあります。
しかし、一方の家庭は、そこに「働かせる者」が不在だからこそ、それ以上に環境の改善が難しいことがわかってきたんですね。社会がずっとDVや児童虐待の防止に手を焼いてるのも、プライベート空間たる家庭内に介入するのがいかに難しいかを表しています。
だから、あまりに労働環境ばかりに注目するのは、少子化問題の話をしている時にはちょっと危ういなあという印象です。今や、労働外のフィールドにも目を向けないといけない時代なのです。
この問題については最近noteも書きました。
まとめ
というわけで、マルクス経済学の視点からだとどういうように「人口問題」が見えるのかの参考にはなりましたし、問題意識として全般良いことも語られてるとは思いつつも、節々で「資本家と闘う労働者」目線でありすぎるために死角が多いのではないかなと感じてしまいました。
とはいえ、本書は、世の中でSDGsと言いながら人口減少問題にあまり注目が集まって無いことを批判される(人口が減ったら持続可能も何も無いじゃないかと)など、すごく重要な指摘が多々あることは改めて強調しておきます。労働についての観点に比べると目立たない印象があるとはいえ、本書ではちゃんと家庭環境の改善の必要性についても触れられてはいますので、その点も誤解しないでいただけると幸いです。
本稿ではつい批判ばかりになってしまいましたが、これは問題があまりに重大であるがために、江草も一市民として疑問点は疑問点としてちゃんと提示しておかねばという使命感がそうさせてるもので、人口問題を何とか良い方向に向かわせたいという意識としては著者と全くの同志といえます。
だから、この難しい問題に一石を投じた著者には敬意を表します。
こんな感じで社会的議論がもっと盛り上がると良いなと願ってやみません。