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『遊びと利他』読んだよ
北村匡平『遊びと利他』読みました。
たまたまSNSの何かで見かけてテーマが面白そうだなと思って買った新書です。著者の方は江草は存じ上げなかったのですが、映画研究者/批評家の方で、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院というところでの教員もされてる方とのことです。
いやあ、とても面白かったですね。良い本でした。
本書のタイトルには「遊び」と「利他」という比較的抽象的なキーワードが並んでますが、他方で書影の写真に独特の構造物が映ってるのが見えるでしょうか(システム上の加減でもし写真が見えてない方がいたらすみません)。なんか土色のタコみたいなへんな形のやつ。
見た瞬間、これが何かピンと来る人は来ると思います。そうです。タイトルには明記されてないのですが、本書が特に注目してる対象である言わば影の主役は「遊具」なんです。ブランコやシーソー、滑り台などに代表される子どもたちが遊ぶあの「遊具」ですね。
本書は、著者が様々な施設の遊具や遊び場をフィールドワークした研究を踏まえて、社会における「遊び」と「利他」の現状を問う内容の書籍となります。「遊具」が切り口というのがほんと面白い。
昨今では「利他論」というのはちょっとしたブームの気配すらあって、色んな書籍だったり、効果的利他主義という思想も生まれたりしています。おそらく新自由主義的な利己主義社会に対する反動だと思うのですけれど、本書はその流れを踏まえた上でさらに踏み込んだ視点を提示してくれています。
まず、そもそもの「利他行為」が抱える矛盾を露わにするちょっとショッキングなエピソードから本書は話を進めます。(少し長いですが本書の重要なキーパートなので引用しちゃいます)
ここであるエピソードを紹介しよう。
映画監督の西川美和は、震災後の経験についてのエッセイを書いている。広島の実家に戻ってシナリオの執筆をしていた彼女は、多くのエンターテインメント業界の人たちがチャリティライブやイベントを即興的に披露して被災地応援をしている姿を見て焦ったという。
それに策を見出せない自分を利己的で非協力的に感じてしまう不思議な感覚があった。そして彼女は震災から二ヶ月経って、避難所での映画上映会を企画するグループに参加する。ところが、ある避難所の現場の代表に次のようにいわれたという。
「ここは大きな避難所ですので、ありがたいことに次々に歌手の方やら色んな方が励ましに来て下さるんですが、正直ここの人たちはもうそういうイベントに疲れ果ててきているんです。ほんとうはもう休んでいたいし、気持ちの中に涙を流したりする余裕もないのだけれど、しかしそこもまた東北の人間の気質というのか……せっかく遠路はるばる来て演って下さるというのだから、腰を上げて観に行かないと失礼だと言うのでみんな頑張って出てきちゃうんですね」
ここには「利他」の問題を考える重要なエッセンスがある。利他的な行為は、ときに思いもよらず他者に暴力的に作用することがある。無償で与えてもらっているのだから、その想いに頑張って応えなければならない――そうなると、もはや利他は善意の押しつけである。独りよがりの利己的な振る舞いにすら思えてしまう。
利他は言葉にすると「他人に利益を与えること」であったり、「自分を犠牲にして、他人のために尽くすこと」であったり、容易く定義することはできる。しかしながら、いざ実践するとなるときわめて難しい。
実施者が良かれと思って行った「利他行為」が受け手からすると、不要であったり負担になったりする場合があるという悲しい現実ですね。言ってしまえば「おせっかい」であったり「ありがた迷惑」である場合があると。
理屈の上ではもちろんみなそういうケースがあるのは理解してると思うんです。しかし、いざ現実の場面で、自分の「利他行為」が断られても寛容でいられたり、自分に対する「利他行為」をきっぱり断れたりできてるかと考えると、意外とそうでもないんじゃないでしょうか。
与え手の方は良かれと思って(「利他行為」と思って)やっているので断られると今度は急に機嫌を損ねがちで、受け手の方もそれが分かってるから断りにくいということに陥りやすいんですよね。
それこそ、著者も指摘するように、下手をするとその「利他行為」が、「自分は利他的な人間である」という良い気分を得るための「利己的な行為」でしかないという本末転倒なことになりかねないと。
ここに、「与え手」「受け手」という二者関係での「利他」実践の難しさがあるわけです。
そこで、より良い「利他」の実現のキーとして、著者が注目してるのが、「場」「環境」「モノ」のような第三のアクターたちです。「与え手」「受け手」という人間同士の二者関係の外部にある「非人間存在(場)」の触媒によって「利他」が促されるのではないかという発想ですね。
ここでようやく出てくるのが「遊具」の話になるわけです。
子どもたちが遊ぶ遊具やあるいは遊び場のデザインによって、子どもたちの「利他的な行動」の惹起のされやすさが全然異なってくるというのが著者の主張です。たとえば、デザイン次第で自ずと子どもたちが協働的になる遊具と、逆に排他的になる遊具がある。「人間ではない存在」が、人々の「利他」を実に左右するというわけなんですね。一般に人間関係の問題としてとらえられがちな「利他」を、また違う視点から見るとても面白い切り口ではないでしょうか。
そして、本書はその「遊具」の話を足がかりに、効率主義や利己主義に陥りがちな現代社会全体の「場の設計」も考えてしまおうという野心的な話なんですね。
ここから先ほど紹介した「利他」の矛盾をほどくカギも示されていくわけですが、この辺は、実際の現場取材を基にした濃厚な論考が繰り広げられる、本書のキモとなるところなので、いち読者に過ぎない江草がここでかいつまんで要点を説明することは難しいです(すみません)。
ただ、まさに江草も子育て中の身なもので「ほんまそれな」と頷かされる箇所が多々ありましたので、ここからは本書の内容に関連して想起された個人的感想を述べていきます。(著者の正確な主張の把握にはぜひ本書をお読みください)
さて、江草も子どもを連れてよく公園とか遊び場に行くことがあるわけですけれど、確かに本書の言う通りの「公園のテーマパーク化」の状況になってるなと思うんですね。人気の遊具に順番待ちして「何回こいだら交代」「5分遊んだら交代」などとルールが明記されていて粛々と交代していく。遊具としては高度化してるし魅力的だし、安全にも配慮されてるしで、進歩はしてるんでしょうけど、なんか下手すると「プチ・ディズニーランド」みたいな進行で、子ども同士の交流というのがほとんど起きない設計になってるんですよね。そうやって個々の子どもが分離されてアトラクションを消化するかのように楽しむ公園で、確かに「利他」精神が育まれるかというと難しいでしょう。
あるいは、最近増えてるのが有料時間課金制の子どもの遊び場でしょうか。カラオケみたいに1時間とか30分単位で時とともに課金額が増えてくシステムです(遊び放題のフリータイムは平日にしか設定がない感じもカラオケ同様ですね)。課金させるだけあって設備や清掃は整ってて快適だし、やっぱりクオリティの高い遊具も多くて関心するんですが、まあいかんせん「いいお値段」がするわけです。となると、どうしても「時は金なり」感が出ちゃって(特に支払う側の親にとっては)、なんかつい元を取りたくなっちゃって焦るんですよね。落ち着かない、ダラダラ遊んではいけない感じがしちゃう。(誰も歌を入れてない時間が損に思えて「誰か早く次の曲入れろよ」ってなるカラオケの空気感とこれまた似てますね)
そして、これも本書が言う通り、(それこそ「遊び場」なのに皮肉なことですが)公園に「あそび(余白)」が少ないなとも思います。「こう遊びましょう」というのが明確な遊具が多くって「これをしちゃダメ」「あれをしちゃダメ」みたいな禁止ルールも先立って設定されていて、子どもがやるべきことが画一的になってるんですよね(たとえば滑り台なら「上から下に滑る」のみ、「下から上っちゃだめ」とか)。
ときに、今の世の子どもたちにゲーム『マインクラフト』が長年人気みたいなんですけれど、なんかこの現状を踏まえて見ると頷けるなあとも思ったんですね(江草はすごく昔にプレイしたことがありますが自分の立体構造創作センスの無さに驚いてやめました)。
ご存じの方はご存じの通り『マインクラフト』って、自由度が高いクリエイティブなゲームです。ブロックを組み合わせて色々作れます。世の中ではもうとんでもないスケールの作品まで登場しています。
つまり、現実の公園がもはやテーマパーク化して、子どもたちにとって窮屈で画一的な場になってるからこそ、その有り余った創造性の逃避先として、(あくまでデジタル世界ではあるけれど)思う存分好きに自由にクリエイトやワンダリングができる『マインクラフト』がロングセラーになってるんじゃないかと。
もちろん、あくまで江草の思いつきの仮説でしかないのですけれど、こう考えると絶大な『マインクラフト』人気もなんともしみじみと感じられてきます。
で、本書内で「利他を促す場」のヒントとして取り上げられていた遊具や施設の事例は確かに興味深くて、「なるほど確かに楽しそうだなあ」と、既に子どもとは到底言えない年齢の江草でもワクワクする想いを覚えました。いやほんと、遊具の設計や遊び場のポリシーがこんなに奥深いとは。それなりに子どもと色んなところに行ってたのに普段全然意識出来てませんでした。
とはいえ、「子どもが自分自身で危険を感じ取れるようにならないとかえって危険」という理屈は理解しつつも、やっぱり子どもの事故や怪我(たとえ命に関わらない比較的軽いものでも)を避けたいという今時の親の気持ちも分かるんですよね。なんというか、それだけ親側にも余裕(あそび)がないんじゃないかと。
たとえば、共働きも当たり前になった昨今において、ワーキングペアレンツが子どもの熱発で呼び出されたり仕事を休むことになる対応に四苦八苦してる問題はよく言われますよね。ならば、感染症リスクに加えて怪我で通院したり休んだりするなんてことは「避けたい」ってなるのも、自然な気持ちの流れではあるでしょう。
意識的にか無意識的にか、どちらにせよ、大人の事情で「お願い、怪我しないで……」という心理バイアスが今時の親には存在してるように思われるのです。
また、本書でもちょっと触れられてた昨今の遊び場でのトラブル回避傾向。子ども同士のトラブルが起きないようにと、すごく「配慮」「管理」されてる。でも、これもほんと、江草も気持ちが痛いほど分かるんですよね。
というのも、江草自身、以前、うちの子を連れて公共の遊び場に出かけたときに子ども同士(互いに初対面)のトラブルが発生して、それでけっこう揉めて疲弊した経験があるんです。それからしばらくトラウマで子どもを連れて公共の遊び場に行くのが怖かったレベルでした。
それで「トラブルはもうこりごり」という完全に個人的なバイアスが生じてしまって、皆の「トラブルはとにかく避けよう」という気持ちを否定できない江草がいます。
まあ、やっぱり大変なんですよね、トラブルって。
それこそ、先ほども指摘したような現代的な「余裕がない親」にとっては、子ども同士のトラブルなんて徹底して避けたい「余計な事態」となるでしょう。
だから、アトラクション風の設計で遊び方に「あそび(余白)」がなかったり、「秩序正しくルールを守って順番に交代でトラブルなく遊びましょう」という現代の遊具も、設計者が悪いというよりは、ほんとただ単純に社会全体の雰囲気の反映なんだと思うんですよね。
「遊具や遊び場に社会の姿が表れている」という本書の指摘にほんと頷かされます。
というわけで、とりとめも無く江草の感想を綴ってきましたが、もうほんと多方面に思考が広がる本でして、とても良かったです(まだ書き足りてない視点がいっぱいあります)。
少なくともこの本を読むと、普段何気なく見ていた公園とか遊具の風景が全然違って見えるようになるので、経験として面白いのでオススメです。
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![江草 令](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159442884/profile_6a38fb1225eabbdb89e8f63612818e5b.png?width=600&crop=1:1,smart)