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理屈では納得いかないけど直観的には共感しちゃう

昨日COTEN RADIO「老子・荘子」編の感想を書きました。

今日は、その続きと言いますか、別角度での話を書きたいなと。

番組内でも「老荘思想についてツッコミたくなるところはあるかもしれませんが直観的に感じる、アート的な思想と思って聴いてください」みたいな注意が促されてましたけど、ほんとそうなんですよね。(※セリフは江草解釈による再現なので放送ママではありません)

理屈で考えると確かに納得いかないところが出てきちゃう。

たとえば、孔子を祖とする儒教が学問や儀礼を重要視する態度に対して、老子や荘子といった道家は、不自然な分類で世界を理解しようとしたり「こうすべき」みたいな義務を設置するなと批判してるらしいんですね。世界は全て一体で不可分ゆえに分類して理解しようというのがおかしいし、学問や儀礼などにいそしむのは自然な姿ではないから良くないと。

確かにそうかもなとは思うのです。
ただ、ちょっと気になるのは、人が自然に任せた結果、学問をしちゃったり、儀礼を作ったりしちゃうってこともありえるんじゃないかと。人の自然な本性として学問や儀礼が為されてるという可能性は本当にないのでしょうか。

たとえば、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』で、衝動に突き動かされてレールを外れることをイメージさせる例として、漫画作品の『チ。—地球の運動について—』が紹介されています。

『チ。』の主人公たちは「衝動的に」導かれるようについつい地動説の研究に勤しむわけですが、これって主人公達にとってはそうした学問に没頭することが「自然」であった、と捉えるべきではないでしょうか。

もちろん『チ。』はあくまでフィクション作品ではあります。しかし、実際、本人たちにとっては「すべき」とか「した方が良い」とか、そんな打算的、計算的な感覚もなく、自然と学問しちゃってる人たちはアカデミアにはごまんといるような気がするんですよね。だから、学問を探究してることをもって自然でないと言っていいのかというのはちょっと気になるわけです。

キリスト教でも「聖霊の命に従い理性を駆動するのが人の自然な行い」みたいな理性主義的感覚があるという解説もどこかで読んだ気がします。学問や儀礼、あるいは仕事のような、理性に基づくとされる営みが必ずしも不自然であるとも言いにくいところがあるんですよね。

つまり、理性もまた人にとっての自然な本性なのではないかと。

そこにおいて「学問や儀礼などをしちゃダメだよ」と道家が言うのであれば、それこそ勝手に「これは良い、これはダメ」と分類して「すべき/すべきでない」を語ってるようで、自己矛盾に陥ってる気がいたします。

「自然に生きろ」と言われて正直に自然に振る舞った結果、結局、人々が学問をしてあーでもないこーでもないと議論してたり、謎のルールやマナーの体系を築き上げてたりする可能性もあるわけです。

だから、「結果として何をやってるかどうか」を傍から見ただけでは、人が自然に振る舞ってるかどうかって見分けがつかないと思うんですよね。「それが自然かどうか」ってのはもっと見えない内的なプロセスに依存してる気がするのです。

もっとも、こうやって理屈で細かく考えるとつじつまが合わないという点こそが、まさに老荘思想のような、全体性と直観性を重視するアーティスティックな思想の特徴なんでしょう。「論理的におかしいからおかしい」と考えること自体が既に他思想に与していると。

すなわち、「理屈でその思想の妥当性を考える」というシーケンスに入った瞬間に、それは既に論理のフィールドに入っちゃってるんですよね。その時点で論理主義を採択しているようなもので、反論理主義を謳う思想は棄却される運命が確定されてるのです。言わば、結論が決まってる法廷ですね(たとえば法廷で「法を無視すること」が正当化されることはありえない)。

先日の記事でも紹介したスティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か』の冒頭の一文が、まさにその象徴的なものでしょう。

何を考えるにしても、何をするにしても、わたしたちを導くものは合理性でなければならない(それは違うというなら、あなたは合理性を使わずに反論できるだろうか?)。

スティーブン・ピンカー『人はどこまで合理的か

これは反論理主義の人に対し「論理でその妥当性を論証しろ」と迫ってるようなもので、論理主義のフィールドから出られなくするトラップになってるんですよね。

つまるところ、番組でも説明されてたように、老子や荘子も、本当は言葉や論理に頼りたくはないんだけど、それだと全然教えたいことが人々に伝わらないから、やむを得ず言葉や論理も使って教えを説いてるという感じだったのでしょう。論理性では不完全なことは理解した上で、導入として言葉を仕方なく使っていたと。仏教で言う「方便」みたいなやつですね。

だから、おそらく、本稿で江草がうにゃうにゃ論考していた「自然」も、老荘思想が真にイメージしてる「自然」とは実は異なっていて、江草がツッコんでたのはただの影武者の藁人形なのだろうと思われます。いい肩透かしです。

つまり、「論理的には妥当に思えず納得しがたいこと」がその思想の裏付けになってるという、なんとも逆説的な話なのではないかと。

この辺の特徴がとても面白いんですよね。

理屈では納得しきれないけれど、それでも直観的には何か共感しちゃう。

それが老荘思想のような直観的な思想が、これまで人類社会に残り続けてきた理由なのでしょう。

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江草 令
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