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会社に勤めたくないし家庭にも入りたくない世代

昨日、世代論の書籍の感想文を書いたので、今日は余談的にそこから思い出した雑記を。

以前、電車に乗ってた際に、近くに女子高生と思われる二人組がいました。聞き耳を立ててたわけではもちろんないのですが(こっちはベビーカー連れで扉付近に立ってた状態)、真正面でしゃべってるもんだから、その二人が会話していた内容が耳に入っちゃったんですね。

どうしてそういう話になったのかは分かりませんが、二人は自分たちの将来に関する話をしていました。

今時の女子高生の会話口調を再現するのが江草の文章スキル的には難しすぎるので要点だけ述べると、「会社に就職するのもピンと来ないけど、だからといって専業主婦も違うよねー」「分かるー」みたいな内容でした。

高校生はまさにZ世代真っ盛りです(世代について「真っ盛り」という表現があってるか謎ですが)。そんなZ世代が仕事や家事に対してどのような感覚を持っているのか、生の声が図らずも聞けたので、短時間の出来事ではありましたが江草的にはけっこう印象に残ったんですね。

※なお、「隣の女子高生がこんなこと言っていた」的なエピソードは、ネット上では「マック女子高生メソッド」などと呼ばれ、作り話の定型テンプレートとみなされてますが、今回の江草の話は、ほんとにほんとですからね。


たまたま電車内で聞こえたn=1(いや、二人組だったからn=2?)の会話の断片で世代をうんぬん語っちゃうのはそれこそ「主語がデカい」案件で大変に乱暴なんですけど、一応個人的にもZ世代の複数人の若者と交流が無いわけではないのと、『Z世代化する社会』も読んだ上で語ってるということでご容赦ください。

で、今回の二人の会話はつまり「働くのも家事育児にもポジティブな気持ちが出ない」という意味と解釈できるでしょう。この感覚は、しかし確かに、世の気配を捉えてるような気がするんですよね。

たとえば、仕事について見てみると、仕事中に最大限手を抜いてまったりすごそうとする「静かな退職」みたいな現象が言われるようになってきたり、「FIREだ」などと言って仕事からの解放を積極的に目指すのもトレンドとなっています。「働かないといけない」ということに対して世の中は懐疑的になりつつあるのです。

他方の家事。今や世の中では共働きが主流で、専業主婦は見事に減少傾向、もはや絶滅危惧種と言ってもいいかもしれません。

なんなら、専業主婦が「働いていない」ことをもって社会のフリーライダーとして非難する声さえ見受けられます。社会の「専業主婦離れ」は紛うことなきトレンドと言えましょう。

専業主婦になるのは嫌だけどだからといって別に働きたくはない。働きたくはないけれどだからといって別に専業主婦にもなりたくない。まさにジレンマです。

働くのも家事育児も否定的。

これだけ聞くと何とも後ろ向きな態度でダメダメに聞こえるかもしれませんが、必ずしもそうではないように思うんですね。

というのも、同じような態度を示してる超絶有名な教えが世の中ではすでに知られているからです。

それは、仏教です。

日本仏教ではだいぶ変質してしまいましたが、元々の古典的な「釈迦の仏教」においては、働くことと家庭を持つことは否定的に取り扱われています。

僧は仕事をしてその対価としてお金や物を受け取ることは禁じられてるので、托鉢(寄付)のみで生きることになってます。また、出家が前提で妻帯や子どもを持つことも本来は許されません。

つまり、徹底した反労働主義と反出生主義がもともとの仏教の態度なんですね。

仏教研究者の魚川祐司氏(a.k.a ニー仏)も「異性とは目も合わせないニートになれ!」という面白い表現で仏教のこの特徴を紹介されています。

なお、ちゃんと堅い書籍の方でも同様の話はされています。

で、ここでは別に仏教の紹介や宣伝をしようとしてるわけではありません(江草は仏教徒でもないですし)。

ただ、なぜ仏教が仕事や家庭を否定したのかを考えることで、「勤めるのも専業主婦も嫌」と女子高生が言い出すような今の世相を見るヒントになるのではないかと思うんですね。

ものすごくざっくり言うと、個人の苦悩を取り除くのが(古典)仏教の目的じゃないですか。そして、これまたざっくり言うと、苦悩を取り除くのに仕事や家庭は障害になるから止めとこうということになってる。そんな世俗的なことにまみれていたら悟り(苦悩から解放される境地)は開けないぞと。

もちろん、仏教と全然スケールや奥行きは違うとは思うんですけれど(渇愛も全然滅尽することはできてないでしょうし)、つまり、今の世相は「個の苦悩を取り除く」方向にかなり関心は向かってると推測できるんですね。

物事に心を揺さぶられない魂の平穏を得たくって、それで苦悩の源(平穏の妨げ)になりそうな営み(仕事、家庭)を意識的にか無意識的にか自ずと避けていると。(と言いながらおそらく渇愛は捨てずにいるのが仏教と違いアンバランスなところなわけですが)

実を言うと、「Z世代」の前世代にそれと被る形で「悟り世代」というものが日本では言われています。まさにそう、ある意味では一種の「悟り」を目指しちゃってるんですよね。「Z世代」が一応次世代ではあるとはいえ、おそらくそうした「悟り志向」は受け継がれてるし、『Z世代化する社会』を見るに、もしかするともっとその傾向は強化されてるかもしれません。


これ、実に悩ましいなと思うんですね。

苦を避けようとしている。これをさらに俗っぽく言うと、幸せになろうとしてるわけです。個人が個人として幸福を追求しようとしてるのを否定するのは通常は難しいでしょう。

その結果として若者が「働きたくないし家庭に入りたくもない」と言っている。これを大人たちが納得できないとして、その上で彼らの「個人としての幸福追求」という目的の方が否定できないならば、「その生き方はその目的にかなわないよ」と諭す方向しかない。

すなわち「働いた方が幸福になれるよ」、あるいは「家庭を持った方が幸福になれるよ」と若者たちに伝えようということになります。

実際、仕事については、「働いて社会に貢献しよう」とか「仕事で自己実現しよう」などという説得が既に世を席巻していますし、家庭についても一時のChildfree運動がピークアウトしてきたのか「子どもを持つのは大変だけど幸せなことだよ」と家庭のポジティブ面を強調しようとする動きが出てきている感触があります。

決してこれらの動きを否定するものではないのですが(むしろ個人的には賛同したい心持ちさえあります)、しかし、それはそれで、仏教という人類史上に残る強力な教えに反抗することを言おうとしてるわけですから、なかなかの高難易度であることには違いないでしょう。下手をすると逆に「本当に私たちの方が正しいのか?」と悩まされてしまいそうです。というか、実際に江草は悩み続けてるところがあります。

「若者は社会を反映する鏡」と『Z世代化する社会』は指摘していましたが、若者の態度から出てくる問いというのは、まさに社会にどっぷり使っている私たち大人の身に迫ってくるものがあり、ほんととても考えさせられるなあと思いました。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。