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「鍵をかける人」と「それを解く人」の非対称性

Twitterで自著の批判がなされたことに対し、山口尚氏が丁寧に反論してるこのnoteを読みました。

批判の内容自体に対する丁寧な応答もさることながら、Twitter上で本の批判をするのはあまりにスペースがなさすぎて難しいという山口氏の意見が素晴らしく、ほんとその通りだなと思います。


Twitterというたかだか140字の短文の批判で、書籍という十万字単位で綴られた文章を一蹴することができるのに対し、その批判への応答だけでも丁寧にやろうとすればこの山口氏のnote記事のようにそこそこの長文になるわけです。

江草も、先日大津先生の記事に対して、なるべく丁寧に批判する記事を書いたら、おそらくもとの記事よりも長い1万字近くになりました。

こういうのちゃんとやろうとするとめちゃくちゃ長くなるんですよね。


でも、悲しいかな、こういった反論とか批判的吟味は正直あまり注目されないものです。
先にもとの記事を読んでないと意味が分からないためか、「結局どっちが正しいの?」とスッキリしない気分になるためか、そもそもだいたいが長文なので読む気が起きないのか、理由は分からないですが、丁寧な反論や吟味は労力がかかる割に人気がなく報われにくいところがあります。

科学界でも、新規性があり斬新な結論を提示する研究がもてはやされ、地道に各研究結果の再現性を確認する追試研究は評価されないなど、「新しい知見を発表すること」に対して「吟味する」「反証する」ことが軽視されてるバイアスが指摘されています。


今の世の中、こういった「新たな主張をすること」と「反論や精査をすること」の労力や報われ度の非対称性がかなりの問題になってると感じます。


この非対称性があるために、批判的吟味や反論の注力は相当な大物にしかできなくなって(したくなくなって)、とくにTwitterなどで数多いる「妥当性が怪しいけれど小粒の主張」は野放しにならざるをえないのですよね。

吟味反論側が1つの「問題ツイート」に対して丁寧に問題点や疑問点を指摘して長文をしたためているうちに、つぶやく側は何個も新たな「問題ツイート」を生産することができますし、その拡散力も桁違いだったりします。

それゆえ、吟味反論側が無力感に襲われるのも無理はない状況になっています。(ひいては「個別に対処するのは無理だからいっそ言論弾圧しよう」などのタカ派意見がマジメに提案される始末になってます)


言ってみれば、こうした「サラッと短文で放った意見」は、鍵をかけるのは簡単でも、その「妥当性の是非」を解くのは難しい「暗号」みたいなものです。言うは易し、解くは難しとも言いますか。

言論の自由は守りたいけれど、そうすると質の悪い「暗号」もどんどん増えてしまう。それなのに鍵をかける人ばかりで解く人がいなければ、めちゃくちゃになってしまいます。

だから、解く人を増やしたり奨励したりすることが大事なはずなのですが、なかなか「解読」は人気がないし、多くの人にとってその余裕もないのが実情です。

でも、だからといってそれでいよいよ「解読」自体を社会が諦めるなら、おそらくいずれは自由を殺すしかなくなります。

それでいいのでしょうか。



こうした「暗号」とどう向き合うか、現代社会における分水嶺みたいな重要な課題と思います。

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