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多様性社会に「縦の旅行」は必要なのか

リベラルエリート層の態度を批判する文脈で、「縦の旅行」というキーワードがしばしば話題になります。

たとえばこれは精神科医ブロガーのシロクマ先生の記事。

先日、アメリカ大統領選挙で民主党のハリス候補が負け、共和党のトランプ候補が勝った頃、インターネットでは「エリートは縦の旅行をしろ」「エリートたちには縦の旅行が足りない」といったメンションを少なからず見かけた。

「縦の旅行」「横の旅行」とは、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ氏が言った言葉だ。
「エリートには縦の旅行が足りない」とは、エリートはしばしば世界じゅうを移動するが、どこでも同族のエリート同士・ブルジョワ同士としか交流していない、つまり広く世界を見聞しているつもりでも階級・階層的にはフラットな「横の旅行」しかできておらず、近隣に住んでいる非エリートについてはまったく知らずに済ませている、といった意味になる。

これは本当にそうだと思う。資本主義や個人主義をしっかりと内面化し、ポリティカルコレクトネスにも妥当するエリートは、東京でもニューヨークでもパリでも似たような価値観を持ち、似たような生活環境に暮らし、似たような多様性を奉じている。

かいつまんで言えば、リベラルエリート層は「多様性が大事だ」と言っておきながら、同質的な人たちとばかりつるんでるじゃないか、もっと本格的に異質な人々と交流すべきだ、という批判ですね。

もともとのこの「縦の旅行」という用語の出現は、シロクマ先生の記事でも触れられてるように小説家のカズオ・イシグロ氏のこちらの記事からのようです。

俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。

こちらのイシグロ氏の記事が2021年のもので、少し前に話題になった用語なのですが、シロクマ先生もおっしゃってるように、この度のアメリカ大統領選の結果を受けて、リベラルエリート層の反省を促す形で再び注目されるようになったようです。

この分断の問題は、イギリスのジャーナリストで『頭 手 心』の著者であるデイヴィッド・グッドハートが"Somewheres"と"Anywheres"の対立構図として描き出した問題でもあります。

以前、読書感想文内で江草もちょこっと紹介しています。

認知能力「頭」偏重主義が進んだ結果、世界中どこでも仕事ができるぜ的なグローバル知的エリート階層《Anywheres》と、生活や仕事の基盤が地元に密着している労働者層《Somewheres》がそれぞれ観ている世界観の分断が進んでしまっていると。

"Somewheres"と"Anywheres"の対比については、評論家の宇野常寛氏がこのポッドキャストで軽く触れています。批判されてる"Anywheres"の態度としてとても象徴的なエピソードが出てくるのでイメージが把握しやすいかと思います。


で、こうした分断を乗り越えるためにリベラルエリート層が「縦の旅行」を積極的にすべきという話になるわけですが、そうした交流は本当にできるのか、とても難しいのではないか、という疑問を呈してるのが、先のシロクマ先生の記事や、こちらのメロンダウトさんの記事ですね。(メロンダウトさんの記事は正確には「縦の旅行」についての記事ではないのですが、異質な集団との交流の必要性についての話題なので、通底する議論と受け取りました)

議論の建付けとしては中学受験すると子供の頃から同質的な集団の中に入れられて他の環境で生活している人のことを知らないままになってしまうため、中学までは公立に入れていろんな人と触れあったほうが良いというものだ。
この議論はかなり大切な指摘だと思うし同意したいのだけれど、果たして本当にそうだろうかとも思ってしまう。

両者を総合すると、社会の中での集団の住み分けが進んでいたり、それぞれの集団の「深さ」が極まってしまっていて、相互に交流する機会がそもそも乏しくなってるし、たとえ交流できたとしても集団間の差異が広がりすぎていて相互理解は難しいのではないかという問題提起ですね。

つまり、「縦の旅行をしろ」とは言うけれど、その現実味がなくなってきていると。


さて、前置きが長くなったのですが、これほんと興味深いトピックでして、江草もちょいちょい考えてはいるんですけれど、もちろん、なかなか一概に言えるような結論があるわけではありません。

ただ、江草もかつては「なるほど確かに縦の旅行は要るよね」という素朴な感覚だったのが、最近、シロクマ先生やメロンダウトさんのように、ちょっと違うように感じるように変わってきたのはあるんですよね。

というのも「そもそも縦の旅行って何のためにするんだっけ」と疑問が出てきたからです。

「縦の旅行」が指摘するところを改めて記述すると「多様性が大事と言いながら同質的なコミュニティに閉じこもってばかりで異質な人々と交流してないじゃないか」ということですよね。

まあ、確かに一理あるとは思うんです。だからこそ、江草や他の皆さんも「うーん」と考え込んでるわけで。

ただ、江草が最近抱いてるのは「多様性社会って無理矢理異質な集団と交流しないといけないってことなんだろうか」という疑問です。

なんていうか、多様性社会の実現の前提として「異質な人と交流して相手を理解しないといけない」というのが変な気がするんですよね。本当にそうなのかなと。特に、この「理解」にこだわる点が近代理性主義の悪い癖の感があります。

だって、そもそも本格的に多様性が広がった場合って、「相手のことがさっぱり理解できなくなる」のがむしろ正常なんじゃないでしょうか。それぞれがそれぞれに異質に特殊に深く分化していくならば、自ずと互いの具体的共通点が乏しくなるはずです。語義上から明らかなように、共通点が多いならそれは「異質」ではないのですから。

だから、シロクマ先生が言うように「縦の旅行がどんどん難しくなっている」というのは、むしろ本格的に多様性社会が現出してきていることの証左なのではないかと考えられるわけです。「多様性社会には相互理解が必要」という命題の是非はさておき、ひとまず「多様性社会だからこそ相互理解が難しくなる」があるのではないかと。

また、それぞれが異質になっていくからこそ、「住み分け」も起こります。魚と鳥が巣を作るところが全く異なるように、それぞれの個性に合った環境というのもどうしても違いが出てきてしまうと。そうすると、異質集団との交流機会が減る、環境がセパレートされるというのも、当然なわけです。これまた「多様性社会だからこそ相互交流が減る」のです。

たとえば先日書いたこの記事で触れてる、「計画的コミュニティ」すなわち「自ら設計(選択)した人間関係」を求める風潮も、多様性社会だからこそのトレンドではないかと思われます。

となると、ここにおいて「多様性社会を維持するためになんとしてでも相互に交流して相互理解に努めなければ」、すなわち「縦の旅行をしなければ」というのは、皮肉なことに「同質性社会の感覚」のようにさえ思えます。「同じ席で酒を飲み交わして互いの本音をさらけ出して談笑すればほら仲良し♪」みたいな、「多様性社会の発想」というよりも、それこそ「同質性コミュニティ内部で親睦を深める時の発想」のままな気がするんですね。

で、ここで「多様性社会だからこそ相互の理解と交流が難しい」という前提にまで戻ることができたならば「相互理解と交流に頼らない多様性の尊重というのはできないものか」という問いも立つはずです。つまり「相互理解と交流は必ずしも必要ないのではないか」という批判的思考が生まれるわけです。

江草なりの結論を言ってしまうと、多様性社会に必要なのは「理解」ではなくって「想像力」だと思うんです。あるいは「寛容の精神」。もっとウェットな言い方をすれば「無条件の愛」です。

たとえば「生き物の命を尊重しましょう」というポリシーがあるとします。ここで、このポリシーを実践するには、世の中に数多ある全ての生物種に触れたことがあったりその特性に精通してないといけないかというと、そんなことはないですよね。誰も「生き物の命を尊重する気持ちになるためにちょっとアマゾンの奥地の未知の生物の調査旅行に行ってくるわー」とかしないじゃないですか。そうでなくたって、私たちは「生き物の命は大事にしよう」と思うことができる。

これは私たち人類に想像力があるからだと思うんですよね。「よく知らないし、何してんだか全く理解できない相手」に対しても尊重しようと思える。それは具体的には理解できずとも「それぞれにそれぞれの大事なものがあるんだろう」と抽象的に想像できるからこそではないでしょうか。

あるいは「あなたの意見には反対だが、あなたがその意見を述べる権利は我々も命をかけて守る」という名言も知られてるように、互いの立場の相違を超えた「存在の肯定」というのもできるはずなんですよね。すなわち「寛容の精神」です。

つまり、多様性社会においても「個々の特性を何とかして相互理解しなきゃ」としないでも、もっと根本的で究極的で抽象的な共通点である「ただ同じ人間である」というレベルまで立ち返れば、その意味で「異質な他人」を尊重することもできるのではないかと。

ここで、具体的な「相互理解や交流を不要とする異質集団尊重実践の一形態」として例示すべきは、やはり「ベーシックインカム」でしょう。
これまでの福祉制度は基本的に「あなたは何者ですか」「あなたは何をしてるんですか」「あなたはどう困ってるんですか」という「理解」を前提とした条件付のものです。これは言ってしまえば、福祉給付を必要とする理由が「理解できないもの」であれば給付されない仕組みと言えます。
しかし、「ベーシックインカム」は「ただ人間である」というだけで給付されます。だからこれはまさに多様性社会にふさわしい「理解するステップを不要とした制度」なわけです。

もちろん、これで完璧ってこともないし、課題も多々あるんですけど、このベーシックインカムのように、「理解や交流が必要」という前提を取っ払った社会設計は考えうる気がするんですよね。少なくともその前提が絶対ではないと考えることはできるはずです。


そんなわけで、そろそろ、まとめに入りますけれど、「多様性と言うなら相互に交流して相互理解しろ」というのも、必ずしも妥当とは言えないのではないかと江草は感じてるわけです。

もちろん、これは異質な集団との相互交流や相互理解を「するな」と言ってるわけでも、「無意味だ」と言ってるわけでもありません。

ただ、それが「する意味がある」、「した方がいい」レベルなら分かるけれど、「縦の旅行」の概念に基づく批判が迫ってくるように「なんとしてでも異質な集団を理解しないといけない」「異質な集団と積極的に会わないといけない」までくると行き過ぎな気がするのです。

異質集団と遭遇することを「拒絶する」とかではありません。何かしらのつながりはやっぱり必要だと思います。以前読書感想文を書いた『敵とのコラボレーション』という書籍でも、「立場が違う相手と完全に断交するのはいけない」という話がありましたが、それに近い感覚です。(ちなみにこれも「気の合わない相手」「理解できない相手」の存在を前提としてますね)

しかし、だからといって、「相手を理解しなければいけない」「相互交流に積極的でなければいけない」「住み分けせずに同じコミュニティに共存すべき」という強迫観念に至るというのはちょっと違うのでは無いかと。

もっとメタで抽象的なレベルでの相互尊重があれば、そこまでアクティブでなくもう少しパッシブな態度でもいいのかもしれないし、むしろそうでなくては多様性社会は成り立たないように思うのです。

とはいえ、人が「無条件の万人愛」を抱いたり、抽象的な「寛容の精神」を育むためには、結局は直接的に関わり合う「縦の旅行」が必要ということかもしれないし、同質的な人たちばかり集めるゲーテッドコミュニティの乱立は結局は人類史上での国民国家の登場が果たしたように互いの領土争い的な対立を生むかもしれません。

だからやっぱり、一概には結論を言えずに、悶々とするわけですが。

うーん、難しい。



※余談ですけれど「縦の旅行」って言葉、よくよく考えると「縦」って言ってる時点で、人同士の上下関係を想定してるきらいもありますね。ここも何となくモゾモゾするものがありますが、とりあえず今日はそこは深追いせずということで。

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江草 令
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