私の身体を生きる/一流作家たちの個性が光るアンソロ
17名の女性作家(一部トランス含む)による、自身の身体にまつわるエッセイ集です。
小説家や、インドアっぽい職業の書き手さん中心のアンソロジーという性質ゆえ? 運動や武術、身体を使った仕事といった、日常の身体活動に関する話は少なめ。
また、若い人が多いからか、「身体」には外せないはずの、病気に関する記述もあまりないかも。
「身体」が題名でありながら、元の連載企画がそうだったのか何なのか分かりませんが、「性」を主題に書かれている作品がメインで、やや好き嫌いが分かれそう。
書き手の年齢が20代〜アラフィフのため、次の2つのテーマが多く書かれている印象です。
「性被害を受けたり、出産にまつわる圧力が強い世情の中で、自分の身体と向き合わざるを得ない経験」
「男性目線で作られた現代社会の中で、欲望されやすい女性の身体を持つ苦しみ」
性被害を受けた後に心身ともに傷ついても強く生きたいという切なる思いや、出産適齢期の女性に対する通念の押し付けや苦しみの軽視、社会から欲望されやすい身体でいることへの葛藤などは、若い女性にとって大きなテーマだと思います。
一流作家たちの視点を通して書かれた作品群は、同じ主題でも、どれも鮮やかな個性があふれていて、全く退屈しません。
この記事では、私が特に気になった作品を紹介します。
が、ここで取り上げなかった作品も全て素晴らしいので、きっと気に入るエッセイが見つかる……と思います!
★千早茜「私は小さくない」
身長151cmの著者が、小柄な体で「男性身体の平均値を中心に設計された社会をどう生き抜いているか」を描いた、まさにサバイバルエッセイです。
著者同様、小柄な私が、もっともオススメしたい作品になります!
先頃、150cm以下の人は車でキッズシートが必要かもしれない、というニュースが話題になりました。
多くの女性が、「我々はキッズシート対応になってしまうのか……?」と騒ぎになっていた記憶があります。
そのため、後に、大人向けのアナウンスもされたようです。
今までも「こんな風に運転しにくい」と訴えていたのに、低身長女性側の工夫を勧められるだけで、社会の側は見向きもしなかった!
決して少なくない低身長の成人女性は、運転者としてずっと存在していたにも関わらず、なぜか社会で存在しないかのように扱われてしまう……。
こういう話をすると、『小柄な男もいる』という意見が出るかもしれません。しかし、ここでは人数の違いに注目しています。
男性の150センチは医学的に少ないケースとして扱われることがありますが、女性で150センチの場合は、むしろ一般的な身長としてよく見られるものです。
「不可視化」は、差別の一形態だと思います。
なのに、小さく弱い女性がメインターゲットの場合、放っとかれる場合すらある。
そうした社会の中で、著者の日常生活には、ありとあらゆる困難が降り注ぎます。
テーマパークでキャストに連れ去られるといったような、お決まりの悪戯も、著者には命の危機さえ感じる恐怖体験になってしまう。小さいから狙われたという事実が、根源的な恐怖に繋がるのです。
ただ生きているだけで、体が小さいため様々な怖い想いをします。いきなり抱きつかれたり、暗がりに連れ込まれても、小さい著者は相手に歯が立たない。
自衛のために武器を持っても、武器を出すことすら敵わなかったり、もう毎日がサイコホラー映画。
なのに「女は小さいほうが得」とかいう根拠なき謎の価値観により、その苦しみすら軽視されてしまう悲しみ……。
しかし最後は、大きな身体のパートナーさんとの優しさに満ちた対話で閉められており、読後感はスッキリ爽やか……だと思います。
なお、読者の私が感想として怒り散らかしているだけで、千早先生ご自身は非常に理知的で穏やかです。
私みたいに「低身長の苦悩を分かってくれ!」とは一切主張しておらず(鬱陶しく喧伝するタイプの人が存在することも、社会変革にとっては大切なことなので……)、身体のサイズによる世界の違いや、人間の視点を暖かく描いておられます。
人数だけなら少なくない低身長の女性は、この社会を構成する価値観「男性の平均」から外れている身体特徴のため、不便を強いられ、誇張ではなく命の危険すら感じることが多々あります。
小柄な女性は、特に男性を警戒しがちになりますが、性加害のみが怖いのではありません。
大きい男性と人混みで故意なくぶつかるだけで吹き飛ぶことがあるため、悪意のない善人も敬遠しないと物理的に生きていけない。
観念ではなく、物理的な危険の問題なのです。
背丈や骨や肉は、信条や思想など内面では変わらないので……。
この作品を「可愛い」と評していたレビューも見かけました。
悪気はないのでしょうが、それこそ、著者が訴えていた「小さい女性が体験する恐怖の軽視」なのでは……? と思わずにはいられませんでした……。
例えば、人間がザリガニと対峙したとき、ハサミを振り上げ立ち上がるザリガニの所作が可愛らしく見えることがあります。
しかしザリガニからしたら、大きくて危害を加えてくるかもしれない人間を、命懸けで追い払わないとならない状況でしょう。
もちろん、可愛いと感じる気持ちは自由です。しかし、小さいものたちが、身の安全を脅かされ抵抗している状態を矮小化せず、本気で困難を抱えていることだけは知って頂きたいな……と願わずにはいられません……。
梨泰院ハロウィン事故でも、小さく筋力も弱い女性から犠牲になったと言われています……
このエッセイを読めば、低身長の女性がどれほど社会で不可視化され、困難が見過ごされているか理解してもらえる……はず?
むしろ今すぐ国語の教科書に掲載すべき重要なエッセイ?! 関係者の皆様におかれましては、何卒ご検討よろしくお願いいたします。笑
直木賞はじめ、幾多の賞を受賞している優れた作家様の素晴らしいエッセイ。ぜひ多くの人に読んで欲しいです。
ちなみに、小柄であることのメリットもあります!
狭い場所でもゆったりできたり、人混みをスイスイすり抜けたり、燃費が良かったり、かくれんぼが得意だったり……。
ご本人曰く、書いた頃より身長が伸びたそうです。
★宇佐見りん「トイレとハムレット」
演劇や創作・日常の小さな体験を通じ、「リアルとは? フィクションとは? 生と死とは?」という問いを深く掘り下げる作品です。
演劇では、本物っぽく見せるために偽物を使ったり、リアリティを追求するからこそフィクションを取り入れる場合があるのだとか。
小説でも、実体験をそのまま作品に使おうとすると、逆に陳腐に感じることがあるそうです。
とある実力派女性官能小説家も、「凡庸な体験をそのまま小説にしても、つまらないので誰も読まない」と何度もおっしゃっていた……。
演劇指導で、古典芸術作品におけるキャラクターの苦悩表現を「お腹が痛くて苦しんでいる場面」のように感じてしまい、指導者から苦笑されてしまった若き日の著者(今も若いけれど……)。
そういった体験を持つ著者は、「(ある程度、他者の感情を読み取れても)それが本当に正しいかどうかは分からないのではないか」と考察します。
そして「他人の内面の読み取りが得意だ」と自負するタイプの人に対し、「そこに思い込みはないのか、本当に他者を理解していると言えるのか」と疑念を投げかけます。
私は割とこのタイプなので刺さりました……自分の感覚を盲信しないようにしなきゃな……。
著者の視点はとても鋭く、けれど同時に、どこか温かさも感じます。
他の作家のように、性に関する直接的な体験は書かれていないものの、こうした生と死に対する純粋な考察が、ある意味で、最もストレートな「性」の表現のように私は思います。
色んな意味で複雑な世界を生きる著者の「現実は華やかだ」という言葉が、強く胸に響きました。
「自分の身体を生きる」ことを通して、命の奥深さに触れるようなエッセイです。
個人的には、このような、魂のこもった掘り下げこそ「私の身体を生きる」というテーマにぴったりの内容だと思いました。
宇佐見りん先生の作品は(多分)全て読んでいますが、どれも控えめに言って最高。
この作品も私のお気に入りになった!
★朝吹真理子「てんでばらばら」
このエッセイは、全編を通して「BLが好き!」という気持ちが溢れ出ていて、ちょっと圧を感じるくらい。
でも、それ以上に、著者の繊細な感性に触れ、豊かな精神世界を共に追体験できるような、美しい文章だと思いました。
幼き日に、萩尾望都の歴史漫画から創作世界に引き込まれた著者は、やがてBLに夢中になります。
心地よいことを追い求め、嫌なことは忘れようとする傾向がある……と自己分析する著者ですが、現実では、避けられない辛い経験に直面することも多々あり……。
それでも創作の世界では、現実にある肉体に縛られず何者にもなれる自由があったと回想します。
性被害を受けても、性的な事柄を嫌わなかったのは、創作世界のおかげだったと自己分析する著者。
創作を愛する彼女の言葉は、文学的に美しく、誇り高く、読者に希望と勇気を与えてくれます。
創作に携わる人には、特に響く内容だと思うので、創作者には是非とも読んで頂きたいです。
あまりBLが好きではない私でも、趣味嗜好は関係なく、とても興味深く読むことができました。
ただ、全体的には、BLが好きすぎて「まるでBL党の政見放送みたいだな……」とも思ってしまいましたが……笑。
この作品を読んで、著者の内的空間は、どんな素敵な世界なのだろう……と惹かれ、芥川賞受賞作を買ってしまいました。
幻想的で叙情感たっぷりの、絵画のような文章で、心から「読んで良かった!」と思える作品でした。
これぞ文学の力。すっかりファンになってしまった……!!
こんな凄い作家が、実在人物を題材としたBLを書いていたらしいけれど(本人談)、どんな作品だったのか全く想像がつかない……。
★村田沙耶香「肉体が観た奇跡」
このエッセイは、名作「コンビニ人間」のエッセンスを凝縮したかのような、短文とは思えない濃密な作品です。
幼少期に何の知識もなく自然に覚えた自慰行為が、あるとき、世間一般の常識とは大きく違っていた……と気づいた著者。
自身の内面世界と社会とのギャップや、周囲の人々が見せる様々な反応が、優れた作家ならではの鮮やかな筆致で描かれています。
ある集まりで、男性芸人が「女って自慰話しないよなー!」と参加者に話題を振ったため、「私は話しています」と堂々と語り始めた著者。
けれど、後で、彼から「あの女は頭おかしい」と陰口を叩かれてしまう……。
このエピソードは、「コンビニ人間」で描かれた、主人公を腫れ物のように扱う「規範的に生きる人々」の態度にも似ており、世の中に蔓延する理不尽な固定観念を強く感じさせます。
けれど同時に、コンビニ人間では(確か)あまり書かれていなかった、理解を示す人々の多種多様な対応も書かれていました。
現実は、意外と多様で「華やか」なんですよね……。
著者の鋭敏な感受性と祈り、そして「現実の華やかさ」を窺い知ることができる素晴らしい作品です。
世の中には、著者のように、大人から見たら逸脱と思える行為に走る子どもも、少なからず存在します。
そんな子どもらの内面世界を、大人が先入観で狭く単純に決めつけず、丁寧に観察し洞察することの大切さも、このエッセイを通じて感じ取れると思います。
★李琴峰「愛おしき痛み」
この著者の小説は殆ど読んでいますが、全体的に身体感覚が薄く、設定や心情描写に納得できないことが多かったです。
でも、このエッセイは、言葉にしっかりと重みがあり、自ら痛みを求める渇望が表現されているように感じました。
なぜ作品の中で身体感覚が薄くなってしまうのか? も、言語化されているように思います。
もしかして、これが本当に書きたかったことなのかな? と思いました(違ってたらごめん)。
ニッチな世界を好み、さらにその中でも独特の趣向を持っているため、なかなか欲する充足が得られない著者。
商業出版の場でも、編集によって「この特殊な内容だと世間から理解されない」と、自分の望む形ではなく書き換えられてしまう苦悩が綴られています。
もし自分が多数派だったら、こんな悩みを抱えずに済んだのかも……と悩む姿が印象的でした。
商業出版の場合、多くの人に読んでもらわないとならない性質を持つため、どうしても大衆向けに変更せざるを得ない部分があるので、確かに辛いよな……と思います。
私も以前、同じような状況で悩み、長らくマニアック専門で活動している作家さんに相談したことがありました。
そのとき「ニッチ嗜好でも、意外と読者は見つけてくれるから、どこかの場所で、好きなことを書き続けるのが大事」と教えてもらいました。
メインストリーム商業誌の書き手としては、ものすごく障壁が多い道なので、実践は難しそう……
と思いつつ、それでも芯が通った作家の言葉は強いな……と感じました。
このエッセイの内容自体は、私にはあまり合わなかった。
けれど、読み手との相性はさておき「良い作品だった」と思えました。個人の感想です。
著者が、本当に書きたい作品が書ける場所に巡り合えるといいなぁと思います。
★鈴木涼美「汚してみたくて仕方なかった」
若い女性が、その女性身体ゆえに経験する様々な出来事を、淡々と描いたエッセイです。
正直、非常にしんどい体験だな……と感じる重い内容ですが、それを軽やかに、冷静に描写しているところが特徴的。
読む人によって感想が分かれるだろうなと思いました。
私は、満身創痍の女性が「平気」と言いながら歩いている姿を思い浮かべてしまいました。
もし本人が我が身の状況に気づいてしまったら、強い精神力で保たれていた気合いが途切れ、倒れてしまうかもしれない……そんな危うさを感じてしまいました。個人の感想です。
だからこそ、彼女の今後の人生にたくさんの良いことが起こるよう、心から祈りたくなってしまった……そんな感想を持ちました。
このエッセイは、読み方次第で、いろんな角度から考えさせられる作品だと思います。
★鳥飼茜「ゲームプレーヤー、かく語りき」
このエッセイでは、女性として生まれた著者が、男性中心に設計された社会で、自分の身体をまるでゲームキャラクターのように操作して生きていくような経験が描かれています。
男社会から欲望される女性の身体に嫌気がさしたり、婦人系の健康問題に直面したりなど、女性として生きる中での「あるある体験」が多く書かれており、共感できる女性は多いかもしれません。
また、著者は、自身の男性パートナーのやや特殊な性的嗜好を知ったとき、「世間でメインストリームとして扱われる属性の立場にある者も、内面は多様なんだ」と気づきます。
決して「女性は男性を理解しましょう」的な意味ではなく、いわゆるヘテロ男性の趣味や嗜好も、一般的な女性が持つイメージとは違うことが多い……という指摘だと私は思いました。個人の感想です。
私自身、男性向けアダルト業界で長年の勤務経験があるため、一般的な女性が考える「男性の嗜好」と現実のデータには結構ズレがあるな……と感じることがよくあります。
そして何より、著者が語る「身体を無視しては何も成り立たない」「身体は意識と同等に主体的であるべき」という主張に、私は大いに共感しました。
☆能町みね子「敵としての身体」(※好意的な感想ではありません)
このエッセイは、正直、他者の身体への重篤な加害を露骨に無視しており、疑問を感じました。
内容は、女子トイレを使えなかったMtFの学生が、注意した女学生に、決して軽くない身体的暴力を振るったニュースに対し、同情を示すものでした。
多分これ。
著者自身のトランスとしての苦悩には、耳を傾けたいと思っています。
しかし、身体の性差による危険性や社会的不均衡を無視している点は、さすがに、社会に不可視化されやすい女性の身体への加害を軽視しています。
「権利はぶつかっていない」と言う活動家がいますが、その人々は、身体の性差を矮小化し、身体性別の差別を無視していることは指摘しなければなりません(女性だけではなく、男性の骨粗鬆症が見逃されやすい等の現象もあるらしいです)。
この本で他の作家、特に「私は小さくない」で語られている通り、男性基準で作られた社会では、女性の身体は常に予期せぬ危険と隣り合わせです。
もし性自認を無視することが差別だと規定するなら(私は「性自認はない」と考える言説には反対です。ただ、身体の性差を無視する考え方にも強く反対しています)、身体の性差を軽視することも同様に、女性身体に対する差別に間違いなく該当するはずです。
キャラ絵師を長らく勤めていた私は、人体に関して一種のプロだと言えます。
身体は、頭蓋骨だけでも十箇所以上の性差があり、全身は百以上の性差があるとも聞きます。
たまに一部が逆の性別の特徴を持つ人は存在しても、全身を見ると(ごく一部の疾患がある人々を除き)圧倒的に個人差より性差の方が大きいです。
著者が言及していた、ブラジルの事件で殴られた少女は、命の危機すら感じたことでしょう。
ある属性の苦しみのみを取り上げ、他の属性に対する命を物理的に脅かす危険性に対する無自覚が、このエッセイを読んで、最も納得できませんでした。
□もし次作があるとしたら……
ということで、全体的に素晴らしい作品ばかりで(私が納得できなかった能町先生のエッセイも読み応えはあると思います)、買って損はない一冊だと思いました。
ただ如何せん、最初にも書きましたが、(作家の年齢や立場が似通っているためか)テーマが被りがちになることは気になりました。
もし次作があるとしたら、感性の鋭敏な成長期の10代や、性差による不調や病気を多く体験する50代以降の著者も招いて欲しいです。
一次・二次産業従事経験者やスポーツ選手、医学の現場の方々、人体の専門家、武術や演劇の経験者など、日常的に身体と向き合っている女性たちの、実感的な作品も読んでみたいな~。
そういう「抜け」もなくはないけれど、その点を引いても、満足できる一冊だと思います。
推し作家が参加している方はもちろん、新しくお気に入りの作家も見つかるはず!!少しでも気になった人は、是非、読んでみてください!
私は、推し作家(宇佐見りん先生)の新作が読めた上、新たな好き作家(朝吹真理子先生)も見つかり、大満足でした。
千早茜先生の本も買ったので読むぞ!!
また、「男性は身体に向き合うことを避けるため、こういうアンソロは無理だろう」と述べている読者の方も見かけました。とても興味深い意見!
個人的には、長いこと身体に向き合っている尹雄大氏と彼が師事した古武術の達人たち、解剖学者の養老孟司先生、植物の体と向き合い続ける鈴木純氏みたいに多様な書き手の方々を集めて、男性バージョンも作って欲しいです!
個人的な体験ですが……
これ以下は、こちらの本とは一切関係ない、私の個人的な体験談ですが……
昨今、「身長や体格に性別は関係ない」という謎見解を文芸批評界隈などで見かけることがあります。
が、そんなことはなく、むしろ全然違います。
大きい女性は、皮下脂肪や骨の太さゆえ、実は、当たっても大して負担がない。
けれど小さい男性は、骨や筋肉といった身体の内部構造がガッシリしているので、接触した場合の負傷リスクは高いです。太っている男性も、女性とはガッシリ感が違う印象です。
大きく逞しい女性は、小さく弱い女性にとって、衝撃吸収性的な避難場所にすらなります(大きく逞しい女性の皆様すみません……)。
「身体に性別は関係ない」は、女性の困難を不可視化している、女性差別的意見だと言わざるを得ません。