コンプレックスを抱いてそれでも前を向く
世の中は決して平等なんかじゃない。「持つ者」と「持たざる者」というのは確かに存在するし、必死で追いかけた末に掴めなかったモノは、時に呪縛のように何年経っても叶わぬ夢として、持たざる者の前に現れる。
コンプレックス
何度かnoteでも話しているが、私は大学受験に失敗している。入りたかった大学に入れず、浪人で頑張れるとも思えず、たまたま受かっていた興味もない大学に入学した。
高校生までの私の生き方は、「自分に厳しく、人にも厳しく」。当時の自分の人生に勉強より優先するものなどなかったし、勉強でただひたすらにどこまでも上を目指すことは、当時の私にとって「生きる」ことと同義だった。
だから当時は、ストイックな人が好きだった。好きなタイプは「努力に裏打ちされたプライドを持っている人」。そして恐らく、自分自身もそうだった。
あの頃は、努力しても手に入らないものがあるなんて思いもしなかった。だから目指す大学に入るために、必死でもがいた。もがいてもがいてもがいて、しがみつこうとした。
だけど、届かなかった。それは私よりも努力した人が多かったということで、私の努力不足でしかないのだけれど、その時私は自分が「持たざる側」の人間であることをはっきり自覚した。
大学に入学してから、頭のいい人達をたくさん見てきた。正直興味も事前知識もない大学だったけれど、入ってみると周囲は私より頭のいい人ばかりだった。それは勉強の知識という面でもそうだったし、地頭のよさという面でもそうだった。
今までの人生で挫折したことなんてないし、何やってもそこそこできちゃう、という「持つ側」の人間も少なくなく、私は自分がひたすら惨めだった。
だけど、私と同じような人も少なくなかった。私と同じ大学を目指し、その夢叶わずこの大学に入ったという友人が何人かできた。特にそのうちの1人とは、互いにコンプレックスを克服すべく置かれた環境でできる限りのことを頑張ったと思う。
彼女はこの大学を出て、入りたかったあの大学の大学院に進学した。
院試前から、彼女は自分に纏わりつく「負のイメージ」の払拭に苦労していた。同じ頃、私も就職活動で苦しんでいたから、その気持ちはとてもよくわかった。
一度の挫折は、それ以前の何度もの成功の記憶をあっけなく覆す。
だから、彼女がそれにうち克って院試に合格した時はすごく嬉しかった。誇らしかった。
そして同時に、ちょっぴり羨ましかった。
先日、久々にその友人と会った。院生2年目、早々に大手企業への就職を決めた彼女は、何もかもが順風満帆、かつてのコンプレックスなどどこにもないだろうと思っていた。だけど実際に彼女の口から出たのは、想像とは正反対の答えだった。
「あの大学に入っても、コンプレックスは消えなかったよ」
彼女曰く、大学院には学部の頃に現役でその大学に入った人間も多く、並んで研究していると彼らの頭のよさを痛感する日々だという。結局、あの頃欲しかったのは「◯◯大学現役合格」という称号だったけれど、実際は入学するだけでは私達の夢は叶わなかったのだ。
たぶん私達は、この先の人生もずっとこのコンプレックスを抱えて生きていかなくてはならない。それは途方もないことに思えるけれど、それに絶望し全てを擲ってしまったら、その先にあるのはさらに深い絶望感だということを私達は知っている。
だから、戦い続けるのだ。己のコンプレックスと。
高校生の頃の好きなタイプは「努力に裏打ちされたプライドを持っている人」だったけれど、今は少し違う。今の私が惹かれるのは、「挫折の経験やコンプレックスを抱えながら、それでも前に進もうともがいている人」だ。
そしてやっぱり、今の自分が恐らくそうだ。
こんな自分を、過去の絶対勝利主義者の自分が見たらどう思うかはわからない。だけど根底にあるのが成功体験にせよ、挫折の体験にせよ、前に進もうと努力する人はとかく美しいと。今はそう思うのだ。
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