「京大的アホがなぜ必要か」は警告の書か,嘆きの書か
酒井敏著 京大的アホがなぜ必要か(集英社新書) を読んだ。
「京大的アホ」とは,常識にとらわれず自由な発想と行動をすること,といってよいだろう。
具体例として,筆者の「フラクタル日除け」の開発にまつわる話をあげている。これがなかなか面白い。
ヒートアイランド問題に対する疑問から始まった研究が,途中から路線変更する。「これで始めたのだから」とこだわらず,「おもろい」方向へ自由に方向転換するわけだ。
フラクタルとカオス,スケールフリーネットワークの話から始まり,そんな「自由な研究」について「面白いぞ」という話かと思いきや,終章に至って,
本書を締めくくるにあたって,政治家や経営者,大学人,そして学生諸君へのメッセイージをそれぞれお伝えしておきましょう。
として,政治家や経営者に向けて,次のように書いている。
昨今は,政財界の人々が社会の矛盾を飲み込もうとしていません。まるでひとつの価値観だけが正しく,それ以外は邪悪な存在であるかのような主張がなされている。これは私にとって大きな驚きです。
バブル崩壊以前に日本経済が絶好調だったのは,そこにアホのエネルギーが詰まっていたからでしょう。アホなガラクタが集まったところに,それを役立てられる流れが起きたから,投資以上の利益が得られたのです。
そのアホを排除して,自分たちが「選択」した価値観だけに「集中」して投資しても,何も起こりません。
ここだけ読んでも,「選択」と「集中」がなぜ括弧書きなのかよくわからないだろう。それは,本書を読んでもらうしかない。
2月18日の朝日新聞に,こんな記事が載った。
学長7割「研究力の低下感じる」
残念ながらWebサイトは有料記事だが,要は,「基盤的経費の減少」や「教員の多忙化」によって大学の研究力が落ちているという話である。
この「基盤的経費の減少」が,本書第四章「間違いだらけの大学改革」で酒井氏が指摘していることなのだ。
本書第四章と終章で書いていることは,将来への警告なのか,間違った政策への嘆きなのか。それは,本書を読んで,読者が解釈することになろう。