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自分の居場所はどこに?~不登校の苦しさを考える~

この前、相談に来ている子どもと、学校までの道のりを共有するためにgoogleストリートビューで、マップ内を一緒に散策してみた。

「この道を通ると人に会いそうなんだよね。。」

そんな言葉が耳に残り、終わった後、自分の経験をふと思い出した。

出席を稼ぐために、別室で過ごす日々

学校を休み始めてから、しばらく経ち、私は別室登校というものをすることになった。
聞けば、学校にある空き教室で、自習をして過ごすとのこと。
全く気乗りはしなかったし、「一人で自習をするなら家でするのと変わらないのでは?」とも思った。
しかし、「わずかでも登校すれば出席扱いになる」ということには心も動き、少しずつ別室に行くようになる。

しかし、いざ行ってみると、想像していたよりもずっと気の抜けない時間の連続だった。
朝、他の生徒と会わないように、少し時間をずらして登校する。
本来の通学路を通ると、グラウンドの横を通らなければならず、体育の授業をしていると他の生徒に見られてしまう。だから、通学路ではない、入り組んだ小道をこそこそと歩き、校門をくぐる。
学校内でも、生徒とばったり会わないように、廊下では常に緊張しながら歩いていく。

空き教室に着くと、ようやく一息つける。

しかし、一息ついたのも束の間、
「航大が学校に来ているらしい」
そんな噂もあったようで、休み時間になると空き教室の扉の隙間から、
顔も見えない誰かがこそこそ笑いながら覗いている。
「見世物じゃないんだけどな」
そう思いながらも、追い返す勇気など全く湧いてこない。

「早く帰りたい」

そんな思いで、自習など全く進まず、ただ時計の秒針が動くのを見ていた。

当てもなく彷徨う帰り道

別室に登校しても、すぐ帰る日が続く。
学校にいる時間は長くて1時間、短くて10分程度。

しかし、早く家に帰れば、

「もう帰ってきたのか」

そんな言葉も聞こえてくる。やっとの思いで送り出した家族からすれば当たり前の反応かもしれない。
それでも、それ以上言わずにただ迎えてくれたのは、今思えば有難いことだと思っている。

出席は稼ぎたい。
でも学校で過ごす時間は、たとえ別室であっても楽ではない。
でも早く家に帰っても、心は休まらない。

だから、帰り道、行く当てもなく街中を彷徨い歩いた。
普通に帰れば20分もかからない通学路。
道を外れて外れて、2時間近くかけて家に帰る。

「おかえり」
道草を食っていたことなど、全く知る由もなく、家族はそう迎えてくれた。誰にも干渉されない一人の時間を求めて、こんな日々が続いていく。

不登校の苦しみって?

当時の日々を振り返りながら、ふと考える。

これは、「不登校」が持つ、苦しみなんだろうか?

学校に行かないと、
人にも会いづらくなるし、
生徒からは物珍しい目で見られるし
家族の接し方も今までと変わる。

不登校になると、こんなに苦しくて辛いことが待っている。
だから、学校に行った方がいいんだ、と。

学校を休む状況の中で、こうしたつらい経験は起こりうることは知っている。
けれど、そのつらい経験は、不登校になったから起こるのだろうか?
そこに因果関係はあるのだろうか?
ましてや、その解決策は学校に行くことなのだろうか?

もしかしたら、綺麗ごとなのかもしれない。
でも、綺麗ごとで済まそうとすることに、思考が止まってしまう危うさも感じている。

学校を休むほどのつらさは、誰にでも起こりうるし、完全に防ぐことは難しいだろう。
でも、休んでからのつらさは、私たちの努力で和らげることができるのではないか。
休んでからのつらさは、不登校のつらさとは何か質的に違うように感じている。

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