ライカM型が楽しい理由。
AFがない。(135mmより長い)望遠がない。ズームレンズが(基本的に)ない。
挙げていけばキリがないが、ミラーレスや一眼レフとの根本的な違いは上記の3つだ。
裏を返せば、それらが可能であれば、他のカメラと大きな違いはない、とも言える。
もちろん、距離計連動するファインダーの特徴こそ、他の機構のカメラとの最大の違いではあるが、ライカの素通しのファインダーであっても、上記の3つが可能であれば、大きな差はないと言えなくもない。いや、逆にファインダーがズームレンズに連動してズームしてくれない分、他のカメラより劣った一面がより浮き彫りになってしまうのかもしれないが。
そのような制限があるから、ライカM型で撮れる領域もまた限られたものになる。ライカでしか撮れない写真がある、と言われたりもするし、僕もそう信じたいところであるが、ドライに考えればそんなものはない。むしろレンジファインダーから一眼レフに移行していったときの、みたままの世界が切り取れること、ファインダーが望遠や広角に合わせて変動して見やすさを確保してくれることの驚愕は、当時いかばかりだったろうと想像する。
望遠で鳥を撮る、ズーム一本で旅を撮る。AFを効かせてスポーツを、ボケを効かせた街中の瞬間的なスナップを、撮る。その世界の広がりたるや、多くのカメラマンがワクワクしたことだろう。
そして今、カメラはもっともっと進化した。瞳に合わせ続ける、夜暗い時でもきれいに撮れる、色味を変えて、連写だって秒間何十コマ、それでフォーカスまで合わせ続けてくれる。動画だってもう、気楽に撮ることができるし、だいたい、撮ったあとすぐにその結果を知ることができてしまう(これはデジタルライカも同じだが)。スマホまで含めればポケットに入れられて、撮った写真をそのまま世界へ発信できてしまう。押せば失敗なく撮れるという方向へ、あるいはどんな状況にも対応できる方向へと進化しているのだ。それと比べたらライカM型はなんと不便なことだろうか。
だが、なんでもできるという流れは、写真することを退屈なものにしてしまったところがある。押せば写るという手軽さは、体験という点では物足りなさを感じさせる。だからそのアンチテーゼとして、今フィルムが流行っていたり、オールドコンデジに注目が集まっていたり、その流れの一つとしてライカへ行く、というのがあるのかもしれない。ライカは写真を体験させるのだ。
…と、まあ、ここまではよく言われる話だ。
ここまでの話は、言い換えれば写真を体験するためには別にライカでなくてもいいということでもある。オールドコンデジでも、フィルムカメラでも構わない。なのになぜ、僕はデジタルライカ、それもM型を選んだのかと改めて考えたなら、それは結局、ライカだったからだ、と言うことになってしまう。所詮はブランド志向ということに他ならない。
ライカのあのスタイルはやっぱりかっこいい。いや、マニュアルのフィルムカメラの時代、カメラはかっこよかった。モノとしてのスタイルの良さ、あの金属で覆われた重厚感、大きさの割に手にずっしりとくる重さは、いいモノを使っていると感じさせるところがある。現在のミラーレスカメラも、人の手にしっくりくるように作られていて、素材を吟味し、大きさに比して軽く仕上がっていたりと機能美があり、それはそれでいいとは思う。CanonのR3なんかは縦グリップ一体型だが、くりんとしていてかわいいとすら思う。だが、僕が学生の頃に写真学科の人たちが持っていた、マニュアルフィルムカメラの重厚感あるかっこよさを持つカメラは、いくつかのモデルを除けば今やM型ライカだけになっている。
その上、フルサイズ、ボディに見合ったレンズの手頃な大きさをもっているもの、とくれば、もはやライカM型の独壇場となる。
もちろんライカM型は、AFもなければ望遠も、ズームレンズもない。不便極まりないカメラだ。故に撮れるものは限られる。ライカで子どもの運動会は撮れない。小学校のグランドの端から徒競走を撮ろうとしたら、豆粒だ。おそらく、ライカで撮れる世界というのはこの世にあるあらゆる被写体の、その2割程度しか撮ることができないだろう。
だが、僕が撮りたいのは基本その2割なのだ。
これは内田ユキオさんがx100の本で書いていたことだ。当時M3はすでに人から譲っていただいて所持していたものの、それがどういうことかイマイチ分からなかった。今でも、その2割の世界、爆速のAFを持ったカメラの方がいいんじゃないの?と思っていたりもする。あるいはx100シリーズなんかでもいい。僕も使っていた。ファインダーの有無を気にしないならGRでもいいし、シグマのfpなんかも良さげだ。けれど、こうして実際にライカを手して思うのは、その2割を撮るのがとても楽しい、ということだ。楽しいんだから、もう、どうしようもない。うまく撮れるとかきれいに撮れると言うわけでではない。まず楽しいのである。
街を歩いていてもカメラが小型だから、目立たない(わけでもないが、こちらの精神的には大きなカメラを持つより気楽だ)、かばんに二台すっぽり入って荷物もコンパクト。単焦点しかないが、替えのレンズを用意しても嵩張らない。AFがなくても、それなりに撮れる世界もある。絞りと被写界深度の関係を押さえておけば、撮れなくもない。
さらに僕の場合、ライカでなくてはできないことがもう一つある。それが等倍ファインダーだ。マグニファイアをつけているから、ファインダーの世界が等倍に近くなる。両目を開けると、ブライトフレームの世界と、その外の世界、そしてファインダーの外の世界がシームレスに繋がっている。このファインダーで覗く世界はとにかく面白い。両目をあけていると浮かんでくるフレーム。直接世界をこの目で見ているかのような錯覚すら覚える。故に、一眼レフやミラーレスのような没入感はない。没入させてくれるそれらのカメラも楽しいが、それと同様に、レンジファインダーもまた、世界をメタ化してくれているようで、ずっと眺めていたくなるのだ。
さっきも、夜に近所を散策してきた。一眼レフを持っていたときは、田んぼしかないような場所に住んでいたこともあって、夜にちょっと散歩ついでの撮影、というのとなんか考えもしなかった。たいていは河川敷とか、海とか、桜とか、神社とか、何かのイベントとか、夕暮れの犬の散歩で、とか、大きなカメラを持ち歩いても大丈夫かな、というところを探して撮っていた(それが僕の写真が草とか朽ちたものとか撮る傾向を作った、とも言える)。ロードバイクで100-400を担いで走ったこともあったっけ。
それからx100を持つようになって夜の繁華街を歩きたくなった。飲み会のあとに夜の街を撮り歩いた。寝ぼけ眼の繁華街を歩いたりもした。カメラを小型化して、確実に撮る場所が広がっていった。それで撮れない世界があったかと言えば、そんな狭まりを感じなかった。
そうして今、ライカM型で撮っていて、大きな不便を感じてはいない。流石に運動会なんかは望遠ズームレンズが使えるミラーレスに切り替えるけれど、普段の生活で動き回る子どもだってライカで撮る。打率は下がるものの、カメラ一台レンズ一本肩にかけて出かけるにはむしろ気軽だったりする(フジでもそれはできるのだけど、僕の場合AFが利くレンズは高倍率レンズを除けば換算21mmか28mmしかない。それもお気に入りの28mmは、同じ明るさなのに、ライカのレンズに比較して、もう大きすぎる)。家のまわりを撮りたくなる。夜の、明日は休みだという日や、明日からまた仕事だ、という時の寝しなに、ちょっとひととき、写真が撮りたいと思って、ふらりと夜の散歩をしたりする。日常から離れない場所でもやっぱり撮りたい、という気持ちにさせてくれる。
「記憶カメラ」さんなんか、毎日、平日も雨の日も散歩をしてあらゆるカメラを使って撮影しているけれど、そのバイタリティはどこからやってくるのだろう。いろんなカメラを、本当に楽しんでいらっしゃる。僕にとってのそのテンションの維持は、ライカを使うことによるのだった。もちろん他のカメラでもやってきたことではあるけれど、いいカメラを買っちゃったんだから、とにかく使いたいと言って、夜の寝静まるような時間帯に、ろくに撮るものもない町を撮るために歩くなんてちょっと面倒な話だ。ても、そうさせてくれるのが、僕にとってはライカだったのだ。
そう、結局、僕の場合は、突き詰めて言えば、ライカが高くて、ブランド品だからということを否定はできないのだ。あくまで僕の場合である。
でも、それは結局、人に好みがそれぞれあるように、僕はライカという超絶メンドクサイやつに惚れてしまったのだ。その惚れた相手のことを、コスパや、機能性で語ることはどうも難しい。カメラなんだから、機械なんだからコスパや機能性で語るべきなんだけど。でも、あくまで語るならば、そのレンズも含めて小型で、自分の撮りたい世界の2割をしっかり楽しむことができる。等倍ファインダーで世界を両眼で確かめられる、というのは僕にとって代え難い「機能」だ。
そしてやっぱり何よりかっこいい。僕の撮る写真は、高いカメラとレンズが泣くわっというような低いレベルのものばかりだ。冴えないやつだけど、冴えないからこそライカを手にしてしまったのだ。(きっとメーカーとしては求めていない客なのかもしれない。赦して。)どこかの漫画で言ってたな、冴えないヤツほど美に惹かれるって。あくまで僕の場合の話だ。だから、あくまで僕の場合は、ブランド品を買ったというよりは、美しいものを手に入れたかった、そういうことなのかもしれない。カメラのデザインだけでなく、所作とか、そんなのも含めて、ね。
身の丈に合っていないとは思う。こうしてライカの良さなんざ語っていて独りよがりというか悦に入っていてなんだか気持ち悪い気もする。誰がどんなカメラを使おうと自由だとは思うけれど、時折巻き起こると言われるライカへの批判もわかるような気もする。本来、こういうものはさらりと手にしていてさらりと使うべきものだと思うからだ。その方が、たぶんに美しい。
そうして、その美しいものを使って日々を撮る。それが日々の張り合いになるし、何より楽しいのだから、ライカでの撮影体験はプライスレスだと言ってしまいたくなる。そんな精神になりたいものだ。
いやいやいや、しかし現実、プライスレスでは済まされない。預金通帳が泣いていることにもきちんと対峙しないといけない、僕のように無理して買った人間にとっては、ライカのもっともメンドクサイどころではあるのだけれど。
うん、惚れたら負け。