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フィルムライク、X-T5。

 きれいな色してるだろ。ウソみたいだろ。デジカメなんだぜ。それで…。たいした編集もないのに、だた、ちょっといじるところが増えたってだけで…もうデジタル臭ないんだぜ。な。ウソみたいだろ。

色の転び方、ちょっと曖昧な描写。もうデジタルが描く絵の真逆だ。

 Canonにもピクチャースタイルというのがあって、色を変えるプロファイルがあるのだが、これのいいところは、どのカメラでもネットからダウンロードすれば、公式が用意した色のプロファイルを適応させることができるところだ。キスデジXのころから僕は、クリアとノスタルジアというピクチャースタイルをダウンロードして愛用してきたが、これは5D2でも6Dでも使用可能で、また新しく出たプロファイルも古い機種に搭載できた。これはFUJIFILMのフィルムシミュレーションがそういうことができないという事実を前にすると、Canonの何気にすごいところだと思う。
 さらには、このピクチャースタイルは各個人で好きに作ることができ、またそれを配布することも可能だった。僕もいくつかそれを試したものだ。こういうのは本当に面白い。

 そうした中で、僕はデジカメでフィルムライクな写りを求めるようになる。かれこれ10年以上前からフィルムライクな写りをデジタルで再現できないものかと思ってきたのは、このピクチャースタイルの存在が大きい。

 だが、なかなかこれだ!と納得いくものはなく、そういうのをやりたいのならLightroomを使いこなすか、いやそもそもフィルムで撮れって話になることが多かった気がする。
 ちなみにノスタルジアはコントラストを上げて、彩度を落として使っていた。クリアも彩度を下げて、コントラストを気持ち落として使った。そうすると濁りのある、渋い色が出てくれた。神楽の撮影なんかはこれでよく撮った。

 どちらかと言うと、記憶色というのは、現実よりも鮮やかなものを指すことが多い。だからあの頃はそんな鮮やかな色を指向する写りが多かったようにも思う。でも、僕の記憶の色は、フィルムの、正しい色が写っていない、きちんとしていないプリントの色なのだ。そしてそれは僕にとってフィルムライクな色であって、さらにそうして、そういう色を求める人は今やけっこう多いと思うのである。

 さて、いきなり某マンガのセリフをもじった言葉で始まったわけだが、X-T5がまさにそんな感想をもたらす色設定ができることに僕はもうあかん、悶えてしまうわ!となっている。

設定は以下のとおり。

クラシックネガ
ダイナミックレンジ: DR400
ハイライト: -1
シャドウ: +3
カラー: -2
ノイズリダクション: -4
シャープネス: -2
明瞭度: -4
グレインエフェクト: Strong, Large
カラークロームエフェクト: Strong
カラークロームブルー: Weak
ホワイトバランス: 6700K, -4 Red & -1 Blue
ISO: Auto, up to ISO 6400
露出: +1/3 to +1 (typically)

FUJIFILMWEEKLIYより。

 ネットでこれいいよ、と書いてあったのをそのまま使っている。だから自分で考えた設定ではないのだが、いきなり、ああ、コレだよコレ!というのが出て来たので、それ以降のカスタムが捗らない。こればっかり使っているという状態だ。


この白が飛びそうで飛ばない感じとか。
水族館前の水路に泳ぐイルカを見つめる人たち。


露出を明るめにするとなおフィルムライク。
フェリーの光景。レトロさがいっそう増す。


この色合い、昔あった『カメラ日和』という雑誌でよく見かけたニュアンスだ。

 締まりが弱くて、アンニュイなハイライト、コントラストが鈍く、モノと物との輪郭も曖昧、それでいて明るいレンズを使うことで、よく見れば背景との分離はしっかりなされていると言うそんな写り。
 レンズをズミルックスにしたこともあるのか、どこかM3で撮った写真に似た雰囲気もある。と、これは明らかなプラシーボか。
 いずれにしても、この色は日常を美しく切り取ってくれそうだ。


何も撮っていないけれど、何かを撮った気分にさせられる。これ、デジカメなんだよ、ね?
これは、もしかしたらノスタルジックネガに設定していたかも。

 X-Pro2の時には、どうしても出せなかったこのフィルム感。それはおそらく明瞭度とカラークロームエフェクトに鍵があるのかもしれないと思う。もちろんクラシックネガの存在も大きい。けれども特にこの明瞭度は、フィルムっぽさを出すのにかなり寄与しているように思う。
 デジカメがまだ1000万画素あるかどうかのころに、フィルムにデジタルが近づくには、もっと画素数がないとだめだ、などと言われているのを見たことがあるが、それは確かにきっちり写すためには必要な話だとは思う。けれども、僕の求める雰囲気は逆に明瞭度を下げることだったんだなあ、と思っている。これはクセになりそうだ。

 ただ、思うところもある。
 自分が思う所のフィルムっぽさをカメラ内で設定できるがゆえに、逆にやっぱりデジタルだよね、と思う感覚も強まってしまった、ということだ。
 アレだ。ニセガネはなんとかしてホンモノに近づけていこうとするが、どんなにホンモノに似ていようと所詮はニセガネだ、というのに似ている。ホンモノのお金にするにはむしろホンモノに似せない方がいい。そうではなくホンモノのお金に変わるしかない。(岩井克人 『ホンモノのおカネの作り方』フィルムとデジタルの写真の話と似ているな…)
 
 これはもうどうしようもない。本物には、どんなに本物に似せたものが来ようと、それはニセモノだ、という事実しか突き付けないからだ。

 それをあれこれ嘆くよりは、ここまでフィルムっぽくなったのなら、プリントしてどのくらいその違和感があるのかを一応確認してみたいと思う。フィルムカメラの写りを求めるのなら、プリントしてこそ。そこまでやってみて、感じざるを得ない違和感が、まあ、いいか、っとなれば、もう十分だと思う。
 パソコンを介さずにここまで色を作りこめるのだ。RAWで編集することができないような自分には最良な機種ではないか。



秋に近づいているのだろうか、霧の深い朝があって、その中を散歩してみた。霧に紛れて黄色い花を見つける。明瞭度を下げた上に霧だからかなり輪郭が甘いはずだが、それでもよく見ると、背景と花の分離が認識できた。


 もちろん、クセは飽きも早い。このあたりは、もっと色々色を考えていってみたいと思う。

 今度県北高千穂に出張があるが、ひさびさの高千穂である。この色です撮る神話の町はどんなものかちょっと楽しみである。

 あ、いや、仕事はしますよ。


同じく霧の出ている朝。近所の池で。見慣れたはずの白鷺。なんだかドラマチック。



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