桜はなぜ美しいのか。
桜の花を見る。
特にソメイヨシノはその花自体そんなにきれいだとは思わない。
ソメイヨシノの薄い色は、春の青空によく映えるが、花そのものを見るとなんとボンヤリした花びらなのだろうと思ってしまう。
たとえば色鮮やかなチューリップとかコスモスなどの方が、見ていてきれいだと思うし、桜同様日本の代表的な花である菊にしても、こちらの方が見応えがあると思う。ただ、それは花そのものの話であって、桜は花そのものではなく、花の持つ空気感を、僕らは見つめ、そして良いと思っているのではないか、と考えるのだ。
どういうことか。
桜の下を歩くと、ほんのりと他の場所よりも明るく感じる。これは、おそらく実際に天からの光が花びらにより拡散されているからだろうが、他にも山々に咲く桜はそれだけで、この緑と茶色だらけの日本の景色を明るくしてくれる。
あるいはこんなことも。車を走らせていると、ふと遠くにほんのりと明るい場所があることに気づく。はて、あんなところにライトが照らす場所なんかあったかな、と目を凝らす。すると桜の木々が花を咲かせて、その周囲を明るくさせているのだ、と言うことに気づかせられる。
桜はある意味、提灯とかランタンとか、そんな光なのだ。オーラを纏っていると言い換えてもいい。その纏った光を含めて、僕らは桜を見ているのだとは言えまいか。
先日、地元の、県内有数の桜と菜の花の名所を撮り歩いていたとき、スマホをかざして桜を撮っている人がいた。まあ、たくさんいるのだけど。
その人は桜に近づいて、その花びらを撮りながら、うまく撮れないなあ、とつぶやいていた。
多分、桜の花そのものは、スマホで撮るにはちょっと難しい花だと思う。オートだと光の加減では暗くなりがちだし、そのままだと背景がボケないから、ごちゃごちゃしやすくなる。
もちろん、桜の花びらそのものを綺麗に撮る方もおられるし、僕もそんな撮り方をする。マクロで花びらをぼかして、しべの部分にピントを持っていって。そうするとさすがに小さくて、枝ぶりの存在感に負けてしまう桜も、花そのものの美しさが強調される。けれど、やっぱりそれでも、桜の美しさは花そのものというよりも、それらが群れとなって周囲に光を放つ空間的な侵食なのだ、と言いたい。
だから、桜は光の状態によって写り方が極端に変わるような気がする。バラやチューリップなどは、花そのものが強い存在感を持っているので、僕のようにいい加減な撮り方をしてもそれなりに見えるものだ。だが、桜はそうはいかない。光を意識しないで、適当に撮ると、のっぺりとした濁った花の白と、黒く骨ばった枝ぶりがそこに広がるだけだ。
今年、桜の名所の外れにある博物館近くを歩いていたら、敷地の端に、すごく存在感を放つ一本が立っていた。それは木々の木漏れ日を受けて、光のグラデーションを纏っており、孤高とも言えるような存在感だった。
それに向けてシャッターを切った。でも、うまくその光を捉えることができない。レンズをかえたり、立ち位置を変えたり、構図を変えたりしながら何度も切った。いずれも僕が肉眼で見たときの衝撃を超えることはなかった。
その存在感は、周囲にオーラを放っていた。そこにヒカリを受けて佇む桜があるだけで、周囲のなんの変哲もない風景が、すん、と締まるような、そんな印象を受けた。しばらくして、ふと合点が行った。これはポートレートだと。
地元のプロカメラマンに、自分の生徒には花と祭は撮らないように言っている、と聞かされたことがある。花であれば、もともと綺麗なものを撮っても、それはきれいですよ、という報告にしかならないからだ、と解釈している。撮るのであれば、それは本物を超えた美しさでなくてはならない。それが難しい。
だが、考えてみたら、ポートレートだってそうで、綺麗な女性をモデルにして撮る、かっこいい男性をぴしっと撮る、しかしそれは、この人はきれいですよ、かっこいいですよ、と報告するだけであって、そんな写真はつまらない。(で、僕はそんなつまらない写真ばかり撮ってしまう)
だから写真にするという行為は、目の前のモノやヒトを、それ以上のモノとして撮らねばならない。その上で、その対象がもっともよく見える場所を、角度を、構図を、探して撮らないといけない。だから桜は難しい。みんなが既に撮り尽くしただろうモノを、誰もが見たことのないように、あるいは見たことがある構図でも、それでもあっと言わせるように撮らなくてはならないのだから。
そんな時に、桜の美しさとはなんだろうかと考える。やはり、それは桜の持つ存在感を丸ごと切り取ることに他ならないと思う。その存在感とは何か。提灯とかランタンだとか言ったけれど、ようするにそれは「磁場」だ。
結界と言ってもいい。桜の花がそこに佇むことで、その周囲に見えない磁場が発生する。「なんでもないただの道が好き」なんてハッシュタグがあるけれど、それは、モデルさんという存在があるからこそ、なんでもないただの道がなんでもなくなるのだ。磁場を持った存在がなければ、本当にただの道である。
僕は桜が磁場を持っていると感じている。そうしてその磁場をこそ撮りたいと思っている。しかしこの磁場は見えない。なんなら僕が感じている磁場とは何か、その正体もようわかっていない。見えないのだから、簡単にわかるものではない。その、見えないものをどう可視化するか、それが分からなくて、毎年春が来ると、このパッとしない、おまけに撮り尽くされた、それでも人を魅惑する桜を撮りたくなるのだ、と思う。