歌のさまは得たれども。
読書感想文の下読みみたいなことをしたことがある。合計200くらいの作品を読んで各項目ごとに評価を入れる。そもそも上がってきた200の作品は、私たちが読む前に、下の下読みがなされたものだから、それなりの力量のものだったし、その上、仕事をしながらの作業だったから、そりゃもう大変だった。
一緒に下読みをした方は、僕とは違い、だいぶ本職!って感じの人だった。読むことが好きなのだろう。僕は若い頃はそれなりに乱読したものだが、映画にハマってからはそちらばかり、写真にハマってからはより一層活字に目を通す機会が少なくなっている。そんな自分が出身学部を指摘されて読書感想文の下読みである。いやあなんと楽しい…いや、重たい作業であった。
その相手の方が求めていたのは、「新鮮な視点」であった。例えば、「人という字はお互い支え合っているんだ」という金八先生的な見方があったとして、「でも待てよ、人って字は片方だけ楽して片方が苦労しっぱなしじゃん」とか、「じゃあ入るって字も同じやん」とか両津勘吉的な見方(実際そんな話があったはず)を求めていたようだ(嫌味や皮肉という意味ではなく)。
けれども、僕としては、そういう新鮮な視点なんていうものがなくてもいいと考えていた。新しいものの見方は、確かに面白いのだけれど、それを見出すには、出品者は若いし、斜に構えた見方の前に、小説がメッセージを真っ直ぐに発したものなら、そのまま真っ直ぐに受け取って欲しいと考えた。もちろん読み手に判断を委ねる作品ならばいくつも解釈があって構わないし、斜に構えていたものでも、いい作品はいい、というところはきちんとおさえたうえで。
それよりも、読書感想文という形式で、ちゃんと読ませる文章を望んだ。感想文という「作品」をきちんと作っているかを求めた。変に形式ばっていなくても構わないが、文章がしっかりしていて、読書感想文そのものが読んでいて面白いとなる作品。ありきたりな結論、感想で構わないが、きちんとそこに書き手がいて、理路があって、丁寧に描かれた作品。そう、その文章そのものが作品としてカタチを成しているものを求めたのだ。
となると、確かに大抵新しい視点を持つ作品は、(下の下読みで、荒唐無稽なものは外されることもあってか)文章もしっかりしている。
それから、文章はまだまだ未熟だが、自身の気持ちを丁寧に描いているものが光って見えてくる。
自身の感情はまだ説明しきれてないようだが、文章がとにかくうまくて読ませるものもあった。
紀貫之になった気分だ。
僧正遍昭
歌のさまは得たれども、まこと少なし。例えば、絵に描ける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
在原業平
その心余りて詞たらず。しぼめる花の色なくて、匂ひ残れるがごとし。
文屋康秀
詞はたくみにてその様身に負はず。いはば、商人のよき衣着たらむがごとし。
喜撰法師
詞かすかにして、始め終はり確かならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。
小野小町
いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて強からず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。
大友黒主
そのさまいやし。いはば、薪負へる山人の、花の陰に休めるがごとし。
古今和歌集の序文に紀貫之が書いた作者評である。国語の説明なんかでは優れた歌人の評とあったが、いや、その実けっこうディスっている。でも、そのディスっているなかでも6人をあげたのは、それだけなんだかんだ評価されていたからなんだろうと思う。僕らがやった下読みもまた、こんな感じだった。その中で作品を10とか20とかに絞らなくてはならない。なかなかの苦行だった。みんなどこかにキラリと光るものがあるのだから。
さてと、僕の写真はどんな存在なんだろう。歌のさまは得たれども、まこと少なし、なのか。その心余りて詞たらず、なのか。詞たくみ…では無さそうだが、何にしても自分の写真が分からなくなっている。
ただ、思うのは、いい写真を撮るためには、何か新しい発見だとか、視点があったほうがそりゃいいに決まっているけれど、でも、なにもそれだけではない、ということだ。
いい写真を撮るために、遠くへ出かけて撮る。まだみんなが見たことのない世界を撮りに行く、というのは、一つのありようだとは思う。例えば、青年海外協力隊として派遣されたブータンでの写真を挙げていた方がおられたが、そういう写真は、僕ら日本人にとってはとても新鮮な写真に見えた。なにより子どもたちのあのきらきらした瞳が、なんとも印象的で、子どもたちをこうして何の衒いもなく撮れるっていいなあ、と感じたものだった。
けれども一方で、自分の半径500メートルを撮りながら、それが作品として成立している人もいたりするわけで、そこには、自分たちが当たり前すぎて見落としていた世界を、しっかりと見せつけていたりもする。こうした写真には、何か新しい視点、なんていうのはないように思う。それよりは、日常を丁寧に見つめ、どこを切り取るかを反射的に判断し、あるいは枚数を重ねているのではないか。そう、読書感想文の内容に、何か新しい視点がなくても、きちんとした表現、理路があれば、それでいい、というように。
けれども、ここまで書いてきて思ったのは、いや、やはり写真には新しい発見が必要なのではないか、ということだ。
どんなに日常からはみ出さない写真であったとして、でも切り取ったその一枚には、何か新鮮なものを感じさせるものがある。もしそうであれば、それこそ、多くの人が似たような感想を述べているなかで、その人だけ違う視点で本の感想を述べるという、そういう発見が写真にもあると言えるのではなかろうか。そういう発見がそこになくては、写真は作品として成立しないのではないか、そう思うのだ。
うむ、確かに、見事な評論というのは、見事な論理の展開のなかで、私たちが日常では考えもしなかった論理にいつのまにかたどり着いている、という感覚がある。読んでいて、筆者が仕掛けた罠にまんまとひかかった、という感覚に陥る。僕が読んだ、というより、作品に見事に読まされた、と思ってしまう。そういう評論には、確かに、例えば結論はありきたりだったとしても、その論理の展開だとか、理由の説明だとかに新しい視点が組み込まれていたと思う。つまり、何か新しい結論がなくても、きちんとした表現、理路そのものが、新しいそれだ、と言えるのではないか、と。
読書感想文の下読みをしたときに、僕が求めたのは、確かに、真新しい結論ではないけれど、そこに至るまでの、ユニークな論点だったのかもしれない。そこに読者である僕が思ってもいなかった展開があると、面白いと感じて、すとん、と納得してしまったりする。それは論理のジェットコースターに乗せられているような気分である。
もしも写真にそのような新鮮さを付加するならば、どういう手があるのだろう。世界は、まだまだ見たことのないものであふれているが、けれども、その実、どこかで見たことのあるものばかりが、自分の目の前を流れている。そんな世界をうまく切り取って、あ、そういう見方をしてるのね、いいね、と言われるような写真。それを撮るには、僕はまだ、全然写真することに丁寧な取り組みをしていない、ということだけは確かなようだ。
だが、それでも信じなくてはならない。写真だけは20年ちかく続けてきて、なんら上達してなくても、自分が見てきたもの、触れてきたもの、考えてきたことが、自分なりの価値感覚として醸成されている、ということは。
それはつまり偉そうに言うなら「知性」の醸成である。かつてゼミの教授が「感性は老いていくと鈍るものだよ。でもその時に自分の創作を支えるのは知性なんだよ」と宣われていた。そうしてその知性は、考えた分、よく見てきた分蓄積されていくものだ。シャッターを切った分、それはそれなりに積み上がっていると信じるしかない。
写真は引き算だとか、日の丸構図はダメだとか、そんな知識を鵜呑みにしてしまったり、定型が先走ってしまったり、そこをどう撮るのか考える。どう撮ればそれなりに見えるか考える。なんてこともまた、積み上げてきたものから見えるもののはずだ。自分が積み上げてきたものが、間違いなく写真における知性だって言えるのなら。