ポートレートを撮りたい
好きな漫画のなかのセリフで、
主人公が「人物以外は何でも撮ります」と言ったことに対して、
「僕はね、人物しか撮らないんですよ」と応えるシーンがあった。
主人公が、アルバイトで写真展のパネルを飾る手伝いをしているシーンだったと思う。
人物しか撮らないと言ったその人の、その理由がなかなか含蓄があるのだけれど、なんと言ったのか、その詳細を忘れてしまったし、その漫画は今、家にない。実家のどこかにあるはずなのだけれど……。
でも、ポートレートを撮る人だったらきっとそう思うだろうなあ、ということを述べていたように記憶する。
一方で、主人公の恋敵(主人公はまだ彼女のことを好きではないんだけど、彼女は主人公のことが好き)が登場。彼はN大の写真学科生(N本大かな?)で、主人公を好きな彼女と同級生。彼もまた、人物は撮らない、と言う。
「人物は撮らないですね。撮り手の一方的な思い入れを押しつけてくるようで……僕は嫌いです」
そう言う彼は報道カメラマン志望。
けれど、小さなコンテストで彼が出した写真は、彼女が学生時代のポートレート(隠し撮り)だった。
「宣戦布告か……」と呟く主人公。
おいおい、オマエ、べつにハルのこと好きじゃないんでしょ、
とツッコむ読者=私。
『イエスタデイをうたって』は、まだ、写真が趣味になっていないころに読み始めた作品だった。
この流れを見て、僕は人物写真は難しいんだなあ、と考えた。
人を撮っているのに、それは「撮り手の一方的な思い入れを押しつけて」しまっているのではないか、モデルとなる人のいいところを見つけて撮るのではなくて、そうじゃなくて。自分のいいなを作らせている。独りよがりになってしまわないか、と。
「恋はつまるところ自己愛」だとかなんとか、心理学のだれかが述べたというのを聞くけれど、ポートレートを撮るということは、下手をすればそういうことに陥ってしまうのかもしれない。
一方で、アルバイトで出会った男性の言うこともそうだな、と思う。
相手が見せる一瞬のいい表情を切り取る。それは、常におなじ被写体なのに、それ一枚一枚が違う写真だ。
そうしてこれもまた、ぼくには難しい。自然とシャッターを切るのはけっこう大変なことで、それをうまくやっている人はどうしているのか、とても不思議に思う。
けれど、だからきっとポートレートはおもしろいんだと思う。
それは、もしかしたら、「こうであってほしいイメージ」を切り取ろうとしているだけにすぎないかもしれない。そして、それができないもどかしさもまた、おもしろい。
自然な姿をレンズにおさめる。そのまるで窃盗みたいな行為(で、迷惑はかけてはならないけれど)これもまたスナップポートレートの面白さだ。
けれど、これがじぶんの子ども写真だと、ちょっと違ってくる。
子どもの今を撮ろうとするとき、変にポーズを要求しようと思わない。
まだ小さいから、子どもの方もカメラを意識しない。
だから自然な写真が撮れる。
あるいはカメラを意識したとしても、まだお決まりのポーズはしないし、
なんなら、撮る側にまわろうとする。
ライカを奪おうとして落っことしそうになったときはさすがに慌てた。
それ〇〇万円!!!!
こどもはいい。演出もしない。こどもが遊ぶ空間が、演出になる。
ただ、既にカメラを構えるとわざと顔を隠してにやりとするようにもなってきた。
自然な姿が撮れるうちにカメラはなんでもいいから撮りたいと思う。
そうして。
今回あげた写真は、たまたま、つながりがあって、数年、知り合った人に写真を撮らせてもらったものだ。もう古いので10年近く前の写真だ。
皆それぞれが表現を生業とするので、モデルも楽しんでやってくれた。
けっきょくこれらは、自分の一方的な思い入れを押しつけているだけなのかもしれないけれど、
それすらもうまくできないで、中途半端な感じすらする。
でも、人が人と向き合う瞬間というのは、やっぱりいい。
そうやって、ああでもない、こうでもないとやきもきするようなポートレートを、また撮りたいと思う。
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