センスで撮るな。ー写真展を終えてー
会期中に大きな地震があったり、まあ大変な一週間だった。
今回このグループ展では初めて、自分で展示作業もできたし、いい経験になった。
一緒にやったメンバーは、僕より年上で、主催の方の知り合いが僕のよく通っていたカフェのマスターで、そのマスターに声をかけてもらってから3度目となる。主催の方はアサヒカメラだったか、その投稿で年間賞を獲得した経験を持ち、他にも県内のコンテストで賞を獲ったような人たちで、たぶんに僕だけがそんな賞を手にしていない、まあ、そんな末席での参加だ。
そんな経歴の方ばかりだから、県内でプロのカメラマン、写真家を生業とする人もやってくる。そのうち、Aさんという写真家さんが金曜日に訪れた。当番はいちばん年長者の方(皆仕事だったりで在廊できない)のみだった。Aさんがそれぞれのメンバーの作品にあれこれ感想を述べたのを、土曜日、やってきたメンバーに伝えた。よく意味が分からないものがあって、じゃあお礼がてら電話してみようとなった。Aさん、取材に向けて出かけている最中なのに、恐れ入ります。
ああ、なるほど。と思う言葉がたくさんスマホの向こうから出てきた。
カフェのマスターだった方の写真について。なんの変哲もない草や木や、枯れ果てたものたちの写真。ある種、一定の境地に至らなければ、これを良いと思う人は少ないだろう。(だが、彼の写真の腕前がすごいことは知っている。僕は以前彼のある写真を見て声も出なかったことがある。だがいずれにしても、インスタ映えとかそんな言葉からは程遠い写真を撮っていることは確かだが)飄々とした写真群、そんなふうに言えばいいか。
Aさんはその彼の写真に感じた違和感を説明した。ああ、なるほど、と思った。自分が感じていた感覚を、綺麗に言語化してくれたように思った。「自分の撮りたい世界とレンズの焦点距離のセレクトが合っていないのではないか」Aさんはそう言った。僕もその写真を観ていて、どことなく感じていたのは、そういうことか、と合点がいった。僕自身も、この写真はもっと広角で撮られるべきだったのではないか、と思っていたのだ。
ただ、広角で撮るべきとは思ったものの、意図してそうしていないことも分かった。
より広角で撮ったほうがマスターの写真は絶対にいい。最低でも28mm。もっと広くてもいい。訊けば実際のところ、おおよそ35mmあたりで撮っているという。でもより広角で撮ったほうが、マスターが撮ってきた写真はもっと圧力というか、迫力を持つだろう。そのなかで、写真の中の被写体の主従が明確になってくるはずだ。あるいは逆に望遠にしてみて、目に行くポイントをより明確にしても良かったかもしれない。だけれど、準広角でのキリトリによって、そのメリハリがなくなってしまっているのだ。そうしてマスターの口ぶりは、結局意識的にそうやって撮っているんだな、と思った。
何の変哲もないように撮る。それが今のマスターにとって気持ちの良い撮り方なのだろう。だから見る側に戸惑いとか違和感を及ぼすのだ、そう思った。事実を前にして、解釈はそれぞれ変わる。違う解釈でも、本質は変わらない、そういうこともあるのだ。
主催が「nayさんのはどうでしたか?」と聞いた。
「やめてくれ」と思った。「怖いので聞かないで欲しい」
Aさんは電話向こうで話し始めた。
・センスはある。センスで撮っている。
・言葉をつけていることは否定しないし、言葉の人だというのだから批判はしない。けれど…。
要約するとそんなことをおっしゃられた。
「事実を前にして、解釈はそれぞれ変わる。違う解釈でも、本質は変わらない」……見透かされてるなあ、と思った。
写真を展示するにあたって、じいっと自分の写真を観ていくと、なんだか上っ面でしか撮れていないな、と感じていた。まあ、自分で好きなように撮ることを楽しむだけなら、それでもいい。けれども、人の目にさらされるとなると、とたんに自分の写真に、何も中身がないような気がしていた。
20年近くも撮り続けていれば、そりゃあ、こうしたほうがうまく見える、という構図とか、露出はこの場合どうしたらいいか、なんてことも分かってくる。しかし、その自分のなかにある「正解」は、これまで誰かが撮ってきた、「うまい写真」が基にあって、その写真を撮った人が、どういう意図でそのように撮ったのか、そんなことをほとんど考えないでモノマネしているだけのように思えてならないのだ。
そうして、その上っ面だけの写真だということを見透かされたくなくて、僕は、その写真に言葉を補っているのではないか、そんなことを自問していたのだ。
だからAさんの言葉が、「センスで撮っている=中身がない。」「言葉を使う=写真に語らせられていない。」ということなんじゃないか、と思ったのだった。
今回に限らず、別の時でも、自分の作品を褒められると、心のどこかで「世辞なんて言わないでくれっ」と思ってしまっている。一方で「誰からか、ひどい批判を受けるのではないか」という不安を抱え込んでいる。だから、自分の撮るものは、人の目を気にして、それ以上を得られることが、ない。そのくせ、「映え」とは違うのだよ、とか、一人悦に入った姿勢でいたりする。万人に好まれようとして、その実、万人にスルーされるようなものしか撮れないのだ。(僕の人付き合いと似ていることに気づいてイヤになる)
それを、「センスで撮っている」と言うのだと、思う。
センスは必要だ。
けれども、センスで撮れる、なんて、要はそこそこのものしか作れないってことだ。
うさぎと亀の話があるが、うさぎはその慢心によって勝利を逃した。速く走れるというセンスがありながら、それを磨かなかったのだ。
18年カメラを握ってきて、その結果得られたのが、今のセンスと言われるものなのかも知れないし、元から持っていたセンスを全く育てられていなかったのかもしれないが、たとえば、誰かからは忌み嫌われたとしても、他の誰かからは絶賛されるような写真、そんなものを展示できるようになったなら、僕の上っ面しか撮れないという感覚を、さっぱり拭いさることができたということになるのかもしれない。
そんな突き抜け方を、僕ができるのか。考えると気が遠くなる。
大学の後輩に、脚本家になったやつがいるけれど、学生時代なんか、彼が執筆している姿なんて全く見なかった。夜中に酔っ払って、高下駄の足音を甲高く響かせながら(我が合気道部の正装は学ラン革靴。運動部の一部は夏の間応援団として駆り出され、高下駄をはく。)僕のアパートまでやってきて、ドアをガンガン叩きながら「先輩、起きてるんでしょっ!! 開けてくださいっ!」と借金取りよろしく部屋をこじ開け、開けた途端、部屋にジャンプインしながらマーライオンになると言う、散々なことをしたそいつは、今や作家である。
彼にあるのは、多分に、いま、ここ、を精一杯生きる情熱と、そんな自分を、なんだかんだありながらも信じて行動する図太さのような気がする。それを言い換えたなら 向こうみず、ということになるのかもしれないが、そのくらいないと、周りの目が気になって無難なものを選んだり、下手に器用になって、これくらいでいいだろうと適当に整えてしまったりしてしまうのかもしれない。
趣味だからそれくらいでいいのかもしれないが、趣味だからこそ、突き詰めていけるはずでもある。そもそも機材とか経済面においてはもう大量のメセナを使っているわけなんだし、それに見合った作品くらい作れよなあ、とは自分にツッコミを入れたくなる。
そんなことを感じた展示会であった。
と言うわけで、小さなものでも展示会に参加するのはいいものだと思う。自分の無意識の部分にメスを入れたように思う。次はどうしたいのか、それを考える機会にもなるだろう。また誘っていただけるなら、次はもっと良いものを、とりあえずこの数ヶ月はそんなふうに思っていられそうである(笑)。