10年前のカメラ LEICA M typ240
なんでこんなものを買ったのだろうと思う。
AFがない、パララックスが生じる、手振れ補正はない、ということは承知しているし、そういうものだとわかっていたのだけれど、ISO感度は上げられず、どんなに明るいレンズを使っても(F0.95を使っているのだから、これ以上はない)夜に撮るのはこの田舎町では厳しいし、シャッタースピードも4000分の1秒まで、かつベース感度は200から、電子シャッターもついていないものだから、昼間絞りをあけて撮るにも難しい。この、不便極まるカメラに、大金をはたいた僕に待つのは、そのカメラにつけたくなるレンズの沼。純正はズミターでもそこそこするし、上をみれば軽く百万円を超える。それも中古市場は値上がり中で、不人気レンズのエルマリート90mmf2.8でも、以前購入できた金額の倍額はしている。苦労は金を出してでも買えという格言があるが、趣味の世界で、こんな不自由さはたまらないものがある。
実際に手にして気づいたこともある。
ボディのこじんまりとした感じのわりに、けっこう重いのだ。これにスピードマスター50mmをつけたものは軽く1キロを超える。これを持ち続けていて、手首が痛くなった。同じ重さくらいの一眼レフではそんなことにならなかったのに、とにかく不便なカメラだ。
操作性も悪い。メニューに入ると、色味を変えるのに、かなりのカーソル移動を強いられる。項目の並びが、類するものと違うものと、同じ位相にあって、日本製のカメラとくらべるとすこぶる頭が悪いんじゃないか、と思うくらいだ。
typ240の感想について書こうとすれば、まあ出てくる出てくる、悪口しかない。だったらとっとと売ってしまえよ、と思うだろうけれど、想像してほしい、たいていこんな悪口を書くのであれば、そのあとに続くのは「でも、好き」だということを。
ある人が、友人を前にして恋人の悪口を言っている。ぐちぐちぐちぐち言い続ける。でも、それでまっとうな意見を言われると、「でも、それでも彼が、彼女がいいのよ」と言ってしまう、そんな光景。結局悪口は、相手とできるだけ長く続けていきたい、という気持ちの表れなのだ。
それはなんちゃらは盲目、というのと同じことかも知れない。スナップで街を流すには大きな一眼レフよりも箱型の方がふさわしいという言い訳をしても、それならフジフイルムのカメラがあるし、フルサイズでってんなら、α7cだってある。選択肢はそこそこあるわけだ。それでもライカを手にしたのは、結局、いつかはライカ、という憧れでしかない。そしてその憧れは、非常に高価だから生まれてくる。ブランドを買ったわけだ、所詮。
当然ハイブランドだから質感はいい。重さはその質感に由来するものだと諦めよう。でも、赤いバッヂはまあいいとしても、Mとデカデカと書かれた前面はありえない。これならX100Vの方が断然カッコいい。あれはとにかくシュッとしている。ライカを手にしてもそのデザインで欲しくなるカメラだ。
色も選べない。だからLightroomに頼ることになる。それならどんなカメラでも良いってことになる。Canonのピクチャースタイルや、フジのフィルムシミュレーションはやはり良い。jpegでしか撮らない自分としてはカメラで色味を変えられることは大きな魅力だ。
認めてしまおう。僕はライカというカメラが欲しかっただけなんだってことを。高くてカッコいいカメラが欲しくて、でもMが邪魔で、ずんぐりむっくりだけど、それでもライカというブランドが欲しかったってことを。
他のことにはあまり頓着しない自分が、ライカについてはよだれを垂らしてしまうほどとなるのは、そのプロダクトが持つさまざまな「伝説」や、カメラマンが撮った写真によるものだと思う。神格化され、自分もそれを持てば上手くなるとか、心地いいだろうとか、そんな夢想がますますライカ欲しい病を重たくする。
それで、とうとうライカを手にするわけだが、ライカM10にまで手が出ない。
結局、手にしたのは、これはMの字が邪魔だ、とか高感度がもう少し、とか厚みがいやだな、とか思って買うつもりのなかった、某新宿の防湿庫と言われるカメラ店で、急に値段の下がったMtyp240だった。
え? そんなに下げる? と驚くくらい下げられたプライスに、正気を失った夜中、僕は勢いでポチッとした。だから、付属品が充電器だけで、取り説も、元箱も、なにもない、ってことに、届いてからそういうことか、と納得してしまった。
こうして10年前のカメラを安くなっていたとはいえ高値で手に入れた僕は、いつか買うだろうと思ってフジフイルム用に使うことを前提として購入していた中国製の75ミリを付けて撮影してみた。
そうしてそこから、がらりと印象がかわったのである。
なんだろう、この光の描き方は、というのが最初の感想だった。たぶん決して今のセンサーと比べれば、性能的に勝るとは言えないはずなのだけれど、光の捉え方がとても美しいと思った。レンズのせいではないと思う。色の偏りが、国産のそれとは違うのかもしれない。だがそんなことではなく、あと少しで白飛びしてしまいそうなところで、その、ギリギリのところで留まっている、というような非常に繊細な感じ。とにかく光に敏感に反応して、それを美しく出力しているように思えた。
他の機種ではどうだか分からない。typ240は絵画的だと言われ、M10とはまた違うとも言われている。それに結局DNGで撮って仕舞えば後での調整は如何様にも可能だろう。だから、ライカは色がいい、と言って、ライカを選ぶ理由にはならない気もする。
結局高いからいいってことだ。それしか理由がない。
ああ、でも、やっぱり現像するときに、ベースの色は大切だし、光への反応の仕方は、こんなふうには出せないように思う。
それが実際のところはどういうことなのか、僕の目にはなかなかわからない。でもわからないからこそ、このカメラをもっと使ってみたくなる。光への反応がいい、たったこの一点で、10年前のロートルなくせにめちゃくちゃ高いこのライカという機体そのものに、僕は今、相当な深い愛着を持ってしまっている。
その愛着とは、それを持って出かけたくなること。それを持って旅に出たくなること、そのものだ。所有欲を満たすと言えばそれまでだが、すこし違う。何か違う。
写真を撮るために出かけたくなる。
あるいは出かけるならカメラを持っていきたくなる。
いつもひっそりと鞄の中にあって、ふとした時にシャッターを切りたいと思わせる。そういう魅力こそが、ライカのいちばんの機能なのではないか。そしてそれは人によっては他のカメラなのかもしれない。たまたま、本当にたまたま、僕はライカがそういう存在だったのだ。
ご時世的においそれと出かけるのも難しいが、その恋にも似た感情が本当かどうか、それを確かめるために遠くへ行く日を、僕は待ち望んでいる。