印象のパララックス
風景写真とスナップ写真のそれにどのような線引きがあるのだろうと思うことがよくあって、目の前に広がる素晴らしい景色を、どう撮ったら風景写真なのか、スナップなのか、そんなことは撮影者の気の持ちように尽きるとは思うのだけれど、その目の前の景色を、いい…と思ってシャッターを切ったとき、それが自分の想像していたものとはだいぶ乖離があって、どうもしっくりこないなんてことがしょっちゅうあるために、スナップ撮影を主としている自分としては、風景写真を撮ってらっしゃる方々がどんな思考で焦点距離を選び、撮る時間帯を選び、角度や高さを選んで三脚を据えるのか、疑問に思うことがある。
パララックスという言葉があるが、レンジファインダーどころか、液晶に映った画像そのままを記録するミラーレスが隆盛の今、もはや聞かなくなった単語だろう、その言葉の意味を、切り取りたい景色と、実際に撮った写真とのしっくり感、つまり思った通りに撮ること、ができないときに使うことがある。心象とのパララックスというわけだ。
自分の家から小一時間車で走った海沿いに、昔でいうところのドライブインがあるのだが、昭和の名残りあるその店舗が、数年前にリファインされ、地元の特産物を扱う他に食事やジェラート、雑貨を取り揃えたオシャレ施設になっていて、階段が多く、螺旋階段だったり、ジグザグしていたり、二階、三階と縦方向に空間が広がる室内もまた面白いのだが、なにより気持ちがいいのはその屋上、床も壁も白く、太平洋の広大な景色を眺められるようになっており、屋上に上がるための階段室以外は椅子とテーブル、そしてエアコンの室外機が端っこにあるばかり、階段室もまた屋上の広さに対してこじんまりとしており、四方はガラス窓で囲まれ、存在感があり、ついその光景をカメラにおさめたくなる場所である。
ライカMtyp240を初出動させた日、子どもを近くの広場で遊ばせていた折、ちょっとドライブしたいねと、子どものお昼寝ついでに、ここまで車を走らせたわけだが、子どもたちは眠りもせず、一緒に屋上まで上がると、高いテンションで、あたりを走り回り、お兄ちゃんを弟が追いかけ、弟が室外機にちょっかいをだし、それを止め、また走り回っても密もなにもない、室外機さえ気を付ければなんとも心配のない場所に、海からの風が心地よく、薄雲に遮られて柔らかくなった光が、白い床に反射して全体がぼんやりと明るくて、階段室の存在が、なんだか神々しい気すらするではないか、と、中国製の75mmを僕は構えて、シャッターを切った、が、そこに写ったのは、僕が抱いた印象とは程遠く、ならば広角かとXF14mmをつけたX-pro2で撮影したものの、これもどうもしっくりこない。明るさを変えたり、少しアオリ気味で撮ってみたりしても、この場所の、なんだか湿度の高い、光がにじむような場所で、どんと鎮座している階段室の存在をうまく表現できなかったのだ。
明るさや色味は自分の印象を左右するが、今回はそこではなくて、それならばまたやり方もあろうが、引きで撮っても、寄りで撮っても、広角でも望遠でも、あるいは撮る角度を変えても、自分がこうだ、と想像しているその場所の印象を、きっちり写真に収められない。いや、どんな被写体でも、そういう自分の印象と実際に撮れた写真に齟齬はあって、ただポイントは、まあ、それでもいいかな、と思うくらいの差なんだろうけれど、どうしてもここの場所は理想と現実の乖離が激しい、そう感じてしまい、右往左往する、座ったり立ったりする、その繰り返しで、はて僕は何をここで撮りたいのか、よく分かっていない、分からないから、どうすればいいいのか分からない、数学の答えは知っているものの、そこに至る解法が皆目見当がつかないのと似ているなと思い、そんなときはたいてい自分の場合、何かの定義だとか公式を知らないってことになるのだけれど、じゃあ、この写真の場合は、そういう欠如なのかと思いもし、しかしそうじゃなくて、やっぱり結局は自分の理想と、切り取った写真とのパララックスの原因が、自分の見え方にあるのではないかと思ったりもするのだった。
理想として、その景色を「盛っている」のである。想像のなかで、確かにそこはそこなのだけれど、どことなく、微細なところで、目の前の光景をよりよい場所として記憶に加工を施しているのだ、そう結論づけてみる。
世間には、写真で見たよりも美しい風景があり、逆に実際に見てがっかりしちゃった、という場所もある。まさに心象のパララックスだ。だが、それはそういうもので、期待もしていなかった観光地が思いのほか素晴らしかったり、子どものころの記憶が強すぎて、大人になって行ってみたらそうでもなかった、ということもあり、学生時代に観た映画が、すごい衝撃であったものの、30を過ぎてみてみると、やたらと役者のセリフがわざとらしいなと感じてしまうなど、物の見え方はけっこう変わっていくものだな、と改めて考えたりもする、その事実と真実は違うという、極めて当たり前の「事実」に、しかし写真を撮るのであれば、できれば事実を超えた真実を切り取りたいと思うのが、写真を趣味にしている人の思いなのではないかと考えるのだ。
物撮りをしている写真家を追ったドキュメンタリーで、香水のポスターを撮ることになり、その仕上がりが、もはや香水のそれではなく、なにかのオブジェみたいだったということがあって、そのときその写真家は、とにかく印象を切り取った、というようなことを述べていたと記憶するが、しかし本当に、その写真は本物を超えて、その商品を手に入れたいという欲求を掻き立てるようなものであったが、それはどうすればいいのか、その表現の方法を彼はしっかりと熟知していたのだろう、とすれば、僕があの屋上を納得いくような形に切り取れなかったのだ、結局のところ、自分の技量が足りていない、それは写真やカメラに関する知識や技能だけでなく、どのように自分の眼には見えていて、それはどの画角のレンズを使えばいいのか、絞りはいくつか、とか、そういう、さきほどあげたような、数学の答えは知っていても、解法が分からない、ということに尽きるのではないか、と思うに至る。
目で見たままの風景と言いながらも、それは28ミリであったり、35ミリであったり、50ミリであったりもし、85ミリだということすらある。そうでなければ、個人的にはおそらく35ミリが一番自分の視界に近いように思っているから、その見たままの風景が一番印象に残るのであれば、僕は35ミリを使っていればいい。だが、実際には、階段室およびその周辺にひろがる淡い光を撮るにあたって、35ミリが正解ではないのだ。見た風景は脳内で美化され、加工され、加筆され、あるいは歪められ、デフォルトされ、様々に変化が起こってしまっている。たとえ目の前に現物があったとしても、だ。その歪められた対象を撮るということは、しかし、である、本物を超えて、本物以上の一枚を撮りたいという欲求の表れではないか、と考えてみる。できることなら、自分の写真を見て、ここに行きたい、こんな場所に行ってみたいと思ってもらい、実際出かけてみたらそうでもなかった、と言われるくらいになりたいもの。自分の心象のパララックスを昇華させていくことで、観る人のパララックスを生じさせることができたなら、それはきっといい写真、ということになるのではないか、そう思うのである。
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