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ユングの考えた集合的無意識と、増殖のイメージ

今回は、物語ふうではないので、ちょっと理屈っぽくて面倒くさいかもしれません。似たようなものがどんどん増えていく感じを書いたものです。


マリリン・モンローの写真をならべたウォーホルの作品。シルクスクリーンという版画の特性を生かしながら、同じ絵のなかでモンローは複製され、絵そのものも複製され広がってゆく。

その姿は、どこかしら現代の曼荼羅(マンダラ)を思わせる。

そう思ったのは、なんといってもその形だ。たんなる思いつきだというかもしれないが、それが意外とおもしろい連想につながったりもする。
ウォーホルはキャンベル・スープの缶をならべたときのように、奇抜な色彩をほどこしたマリリン・モンローの顔を縦横に配置している。中心に座るのは大日如来ではなく、モンローの姿を借りた資本主義だ。しかも、どこを見てもモンローだらけだ。これは均質化という神経症におちいった資本主義の似姿でもある。

ウォーホルが『マリリン』を制作する35年ほどまえに、ヨーロッパで曼荼羅に出会った精神分析学者がいる。カール・グスタフ・ユングだ。そのころ精神のバランスを崩していたユング自身の夢に、しばしば円形があらわれていた。そのかたちが曼荼羅に似ていることを知ったのだ。

インドがで生まれた曼荼羅とユング

曼荼羅は古代インドを起源とし、密教の経典にもとづいて描かれたものだ。主尊を中心として神仏があつまっている楼閣を、図像化したとされる。
曼荼羅という漢字自体には意味はなく、サンスクリット語を音訳したものにすぎない。漢字に意味はなくても、マンダラという言葉がさし示すものはあって、もともとは「丸い」という意味がそこにあった。

このイコノグラフィは時代や地域によってさまざまなものが存在する。たとえばチベット密教の曼荼羅は、インドの終末期密教にあらわれるシャクティ(性力信仰)をうけ継いでいる。そのなかのある図像には、燃えさかる炎を背に男女の仏が憤怒の表情で交合し、その周囲に龍や獅子などが配されているものがある。情欲のエネルギーが燃えさかっているかのようだ。別の図像では、男女二体の骸骨を中心にすえられていたりする。
インドで女神信仰が高まっていったことをうけ、男女のまじわりによって多数の仏たちが生れでることをあらわしているわけだ。
いずれにしても、密教の宇宙観をモデル化したものにはちがいない。

ユングは世界各地を旅するなかで、チベットの高僧にも接見し、曼荼羅について話を聞いている。そこにユングが見たものは、東洋の宗教思想という特殊な内面表象ではなく、人間にとって普遍的な宇宙観だった。
ユングはフロイトと親交が深かったが、ある時期から距離をとるようになった。それは、ユングが神話の研究をはじめたことがひとつのきっかけだとされる。それによって、フロイトとのあいだに理論的な食いちがいが生じてきた。

フロイトは、意識と無意識が対立的な関係にあって、無意識は過去の記憶や衝動をいれておくための領域だと考えた。
ユングはちがう。意識と無意識は補完的な関係にあるという考え方だ。この無意識には、意識の表面とはまったく別の自分が隠れているというのである。しかも、そこには個人的な無意識だけではなく、人類が共有する集合的無意識があると考えた。
ユングの神話研究は、この人類に共通する本質を探ろうという動機から出発したものだった。人間の無意識にはそうした共通性がそなわっていて、それが神話のなかに投影されていると考えたのである。

ユングはさかんにコンステレーション(constellation)という言葉をつかっている。これは「星座」のことで、私たちの祖先は夜空に浮かぶ星々を結びつけることで、そこに形や意味を見だしてきた。いわば混沌のなかに秩序を見つけるようなものだ。いいかえれば、意識の表面にはあらわれていない世界を、無意識を読みとくことで、あきらかにしていこうという試みである。

なんだかややこしいが、もうすこし書く。
ユングの思考が移ろっていった背景には、ヨーロッパに漂いはじめた不穏な空気があった。国家や民族のあいだで起こった無理解や偏見が第一次世界大戦へとつながっていったという認識は、その思想に大きく関係していただろう。ユングの頭のなかで、無意識は個人にとどまらず、人間に共通する集合的無意識へと展開していく。その過程で、なにか象徴を求める気持ちが強かったのかもしれない。
すくなくともユングは実体として無意識をとらえていた。そんななか、円形の図像にでくわした。

サンスクリット語を語源とする曼荼羅は、ものごとの本質をひきだす、あるいは獲得するというような意味ももっている。チベットの高僧に教えを請うほど執着をみせたユングは、もちろんその意味を知り、彼なりの解釈をしていく。

チベットに伝わった曼荼羅は円形で、「キルコル」というチベット語におきかえられた。この言葉はキルとコルの合成語で、キルは中心性を、コルは回転性を意味している。チベットの僧たちは、中心から周縁へと増殖していくイメージをそこに見たのかもしれない。

曼荼羅はやがて、密教をつうじて日本にもたらされた。渡来してきた曼荼羅を眺めてみても、この増殖のイメージを明確に感じとることはできない。ところが、その下絵には自己増殖するかのような無数の渦のかたちを見ることができる。そこからは、曼荼羅の原形にこめられた思想を読みとることができるだろう。

それだけではない。うごめくような大小の渦から想起されるのは、数学の世界だ。19世紀末ごろからつぎつぎと発見された怪物曲線といわれるものがある。それらのなかにも同じようなかたちの図形がくりかえしあらわれ、微分不可能な曲線を描きだしていく。
自然界にもそれを見ることができる。たとえば海岸線の複雑なかたちは、映像を拡大して細部を見ていったところで、同じようなかたちの複雑さがあらわれてくるばかりである。岩の表面でさえ、それは海岸線の複雑さとてももよく似ている。

怪物曲線にも似たげ減の相似形

スウェーデンの数学者ヘルゲ・ファン・コッホは1904年、雪の結晶に似たある図像を提示した。
それはきわめて複雑でありながら、どの部分を切りだしても同じかたちを見ることのできる連続曲線だった。これらはのちに、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロよってフラクタル理論として提唱されることになる。
フラクタルとは自己相似形と訳されたりするが、もとをたどれば「砕けた石」という意味のラテン語だ。大きさのちがいはあっても、どの部分をとりだそうが、全体の構図と相似するかたちから成り立っている図形をいう。

「部分には全体のかたちが組みこまれ、
全体には部分のかたちが組みこまれている」

マンデルブロは株価の変動モデルにヒントをえて、この理論を発見した。株価の変動をあらわすチャートは、月単位での動きを見ても、週単位でも、日単位、15分単位、1分単位でもそれぞれが似たようなチャートのかたちを描いていく。ここでは秩序と無秩序が共生し、流れるようなダイナミックな構造をつくりだしている。

曼荼羅も、ウォーホルの『マリリン』も、貨幣も、その塊である資本も、増殖と均一性のという意味において、怪物曲線なのである。

曼荼羅が伝播していく過程で、そのかたちは変化していった。かたちの変化は内容におよび、それぞれの地域で独自の様式や思想をもつことになる。
これと同じように、さまざまな神話にも、類似した物語や思考法を見つけることができる。比較神話学は異なる文化圏の神話を比較研究し、多くの類似性を探りだしてきた。そこには「神話の種」と呼ばれるなんらかの基礎的部分が存在して、それが類型を生みだすともいわれる。

たとえば東南アジアやニューギニアあたりには、バナナの登場する神話が多く存在する。ひとつ紹介してみよう。
神が人に、石かバナナのいずれかを選ぶように命じ、人は食べられるバナナを手にした。実利的な選択だ。ところが、硬くて変質しない石は不老不死を意味し、バナナは老いや病い、死を象徴する。またたく間に朽ちていく有限の生を宿命づけられた人間の姿が、物語をとおして描かれているのである。
こうした神話のなかには、往々にして欲望の本質が目に見えるかたちとして再構成されている。

しかし、象徴の意味に依存しすぎるのは危険だ。変化の先端だけにとらわれては、本質を見失う。構造のなかで、コンテキストのなかで、その機能を理解するようにつとめるべきだろう。
その意味で、ユングはあまりにも象徴の意味にとらわれすぎたのかもしれない。
人類に共通する無意識というものを想定することはできても、その存在を例証するのはむずかしい。しかし、ユングはその存在にこだわった。まるで貨幣のもつ神話的物語のなかに、その根源的な秘密を見いだそうとしているかのようだ。それは魅力的な試みではある。そのいっぽうで、危うさとひきかえというふうにも映る。


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Enma Note
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