Enma Note

『ユーフォリックな、僕たち』というタイトルは、そんなに幸福感のない時代への、ちょっとした皮肉でもあります。戦争もあるし経済だって問題だらけ。でもなんか浮ついてる。これを文化や流行を舞台に書いていきます。バカな雑文書きの戯言です。サブタイトルは「資本主義狂想曲」。

Enma Note

『ユーフォリックな、僕たち』というタイトルは、そんなに幸福感のない時代への、ちょっとした皮肉でもあります。戦争もあるし経済だって問題だらけ。でもなんか浮ついてる。これを文化や流行を舞台に書いていきます。バカな雑文書きの戯言です。サブタイトルは「資本主義狂想曲」。

最近の記事

サンプリング・アートと記号の氾濫

アンディ・ウォーホルの制作したマリリン・モンローの版画は、その反復性に意味があった。ウォーホルはモンローの顔をシルクスクリーンという版画技法で、色を変えながら同一のイメージをならべている。さらに版画の性質上、いくつもいくつもそれらが複製されていく。そうすることによって、絵画がもつ芸術の唯一性(アウラ)は崩れ、大量生産されるアートが出現していくことになった。しかもそれがかつてないほどの評価をうけたわけである。 このスタイルは1980年代にニューヨークを中心に流行したシミュレー

    • 性の革命とバタイユの「小さな死」

      1960年代の反体制運動は意外なところに熾火を残した。それは、あたりまえだと感じてきたことへの疑いだった。この自明性への疑念は、豊かな社会がもつ欺瞞にむけられたものだ。 高等教育は資本主義としっかり手をむすび、経済発展は発展途上国家にたいする搾取からなり、社会には男女差別がまかりとおっている。こうしたまやかしにたいして、人々は「言葉の先鋭化」という武器を手にいれた。体制は変わらなかったが、あきらかに人々の意識は変化した。 その武器を手に、一連の騒動はフリーセックスや自由恋愛と

      • 1960年代、反抗する若者たちのゆくえ

        経済学者のケネス・ボールディングは、モノには「物的特性」と「イメージ特性」があるとしている。 前者はおもに機能や素材に由来し、後者はモノにたいする共通の印象や幻影といったものをさす。こう指摘したうえで、人間の行動は「刺激」ではなく、「イメージ」に依存するのだとボールディングは書いている。 この考えにしたがうならば、消費行動をうながすイメージとして、欲望と直接的にむすびついたエロティシズムに白羽の矢があてられたのはよくわかる。性的欲望をからませたイメージ戦略によって、消費欲を喚

        • 繁栄の裏側に、とり残されたものたち

          資本主義と科学技術は、双子の兄弟のようなものだ。両者は手をたずさえて世界を席巻していくことになった。 かつて手塚治虫の描いた鉄腕アトムは原子力小型モーターを胸部にそなえながら、東京の空をビュンビュン飛びまわっていた。ときにはそこで闘い、傷つき、墜落することさえあった。もし仮に原子炉が破損するようなことでもあれば、どんな結果が待ちうけていたことか。 いや、漫画ではじっさいにアトムの心臓部はいくどか破損している。現実世界でそんなことが起これば、とんでもない事態になる。しかし、だ

          ふたりの経済学者の目に映った、20世紀初頭の西欧

          勤勉で合理的な市民精神が、資本主義の土台にある マックス・ウェーバーのこの主張は、ヴェルナー・ゾンバルトも認めている。 そのうえで、この市民精神には貴族的生活への対抗心や鬱憤がある、とゾンバルトは指摘した。ニーチェのいうルサンチマンからの援用なのだが、たんに勤勉さや合理性ととらえるより人間っぽくておもしろい。ゾンバルトの指摘は、大衆心理のなかにある暗くじめじめしたものに目をむけていて、それが資本主義発展のエネルギーになったという見方も否定できないものがある。 ウェーバーと

          ふたりの経済学者の目に映った、20世紀初頭の西欧

          禁欲か贅沢か。経済学者たちの目に映った欲望

          もともとは禁欲的で勤勉なプロテスタント精神から、資本主義が生まれた--。 ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864-1920)は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904-05)のなかでそう論じている。働くことを、あるいは実直であることを重んじるプロテスタントの倫理観が、資本主義の産みの親であり、なかでもカルヴァン派の気まじめな市民社会の倫理が、資本主義発達の要因だったという。 いっぽうで、まったく別の見地もある。 プロテスタント的な禁欲ではなく、贅沢

          禁欲か贅沢か。経済学者たちの目に映った欲望

          生贄の羊の捧げるように、資本主義の神に欲望を捧ぐ

          神話があぶりだすもの「すべては神話の性格を帯びている」 これは、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの『大山猫の物語』のなかの言葉だ。ここには、科学と神話をまったく異なるものと考え、神話を侮蔑するような風潮にたいしてノンを突きつける姿勢がある。 北米西海岸から南米、とくにブラジルをわたり歩いて、ネイティブアメリカンの神話を比較考察することで、レヴィ=ストロースはそこに世界を説明しようとする人間の営みを見た。科学にせよ神話にせよ、この探究心は同質のものだと彼は考えていた。 神

          生贄の羊の捧げるように、資本主義の神に欲望を捧ぐ

          ユングの考えた集合的無意識と、増殖のイメージ

          マリリン・モンローの写真をならべたウォーホルの作品。シルクスクリーンという版画の特性を生かしながら、同じ絵のなかでモンローは複製され、絵そのものも複製され広がってゆく。 その姿は、どこかしら現代の曼荼羅(マンダラ)を思わせる。 そう思ったのは、なんといってもその形だ。たんなる思いつきだというかもしれないが、それが意外とおもしろい連想につながったりもする。 ウォーホルはキャンベル・スープの缶をならべたときのように、奇抜な色彩をほどこしたマリリン・モンローの顔を縦横に配置して

          ユングの考えた集合的無意識と、増殖のイメージ

          女優の死と、ウォーホルのPOPアート

          1962年の夏。 マリリン・モンローが亡くなったことを、アンディ・ウォーホルは翌日の新聞で知った。ウォーホルはすぐに彼女のエージェトに連絡をとって、映画『ナイヤガラ』のプロモーション用写真を購入している。鋭い嗅覚とためらいのない行動力は、往々にして重要な局面を制し、流れをひきよせる。 ウォーホルはモンローの写真を転写して、シルクスクリーンの作品として発表した。1960年代以降のポップアートティストたちが多用した版画の一種である。 ウォーホルの作品『マリリン』では、その顔はイ

          女優の死と、ウォーホルのPOPアート

          <乳房幻想>の膨張と収縮

          弾丸ブラの流行った時代女性のバストラインを異様に尖らせたスタイルが、アメリカで大流行した。1940年代後半から50年代にかけてのことだ。 バレット・ブラ(弾丸ブラ)と呼ばれたブラジャーを身につけ、そのうえにニット素材のセーターを着て、胸を強調したのである。当時の写真を見ると、その豊胸ぶりは異様ともいえるほどだ。おまけに、大な鉛筆の芯のように尖ったブラの先には、ぐるぐると螺旋状のステッチまで施されている。 女性のからだのなかでもとくに胸が注目され、消費された時代といえる。

          <乳房幻想>の膨張と収縮

          マリリン・モンローの身体と思考

          豊かなブロンドに白い肌、ぽってりとした赤い唇。 なまめかしいボディが、スクリーンのなかで揺れる。 黄金の時代といわれたころのアメリカの男たちは、マリリン・モンローの姿に口もとを緩め、口笛を吹いた。彼女はこうしてアメリカのセックス・シンボルにのぼりつめていった。 「賢い女の子は、自分の限界を知っているわ。頭のいい女の子は、限界なんてないことを知っているの」 これは彼女の言葉だ。 賢いと訳したwiseには、経験や知識が豊かだというニュアンスがある。頭がいいと訳したsmartは、

          マリリン・モンローの身体と思考

          サンタクロース火刑と消費文化

          ひとつの象徴的な出来事がある。1951年12月24日、フランス中東部の古都ディジョンで起きた奇妙な事件だ。 この日、大聖堂のまえに数百人のこどもたちがあつめられた。その目のまえで、巨大なサンタクロースの人形が大聖堂につるされ、火あぶりにされたのだ。キリストの生誕祭を異教化しているとして、聖職者たちがサンタクロースに有罪を宣告し、刑を執行したのである。 この事件をうけて、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは雑誌『現代』の1952年3月号に、ユニークな論文を発表している。

          サンタクロース火刑と消費文化

          イズムの時代と20世紀

          「ツァイトガイスト」(Zeitgeist)というドイツ語が、20世紀初頭に流行した。 直訳すれば時代精神であり、それ以前は民族的な精神文化という意味でつかわれていたが、いつしか、ある時代をおおう支配的な思想や気分をさすようになった。 天に突き刺さるような尖塔がバロック精神の象徴であったとすれば、20世紀の精神とはどんなものなのか。 当時の知識人たちは、その問いが発する誘惑に魅せられた。この言葉がそのまま英語として流布したほどで、ペダンティックで重々しい響きを求めるような空気

          イズムの時代と20世紀

          マドンナへとつながる欲望の系譜

          増殖のメカニズムにふれる1990年、マドンナがその鍛えぬかれたからだにジャン=ポール・ゴルティエのデザインした尖ったコーン型のブラジャーをつけて、パリ・コンサートの会場に登場した。古くさい乳房信仰を打ち壊すようなパフォーマンスだった。タマラ・ド・レンピッカが亡くなってから、ちょうど10年後のことだ。 たしかにマドンナの姿は、レンピッカの描いた青銅色の乳房を彷彿とさせた。じっさい、マドンナはレンピッカ作品の熱心な蒐集家であり、たびたびみずからの楽曲のPV(プロモーションビデオ

          マドンナへとつながる欲望の系譜

          世界をめぐるレンピッカ、資本主義

          「欲望する機械」という言葉は、たしかに秀逸なネーミングだった。けれども、それが盛んに語られたのはもう50年も前のことだ。当時の新鮮さはすでに失われている。イメージに傾きすぎているという批判もあった。 それでもなお、欲望のもつ奇怪で、謎めき、冷徹で、どこかコケティッシュな特性の表現としては、独自の存在感をはなっているだろう。ましてや、欲望の車輪は、いまもカラカラと音を立ててまわっている。どんどん加速しながら。 ドゥルーズ/ガタリにいわせれば、「器官なき身体」からつらなる思考の

          世界をめぐるレンピッカ、資本主義

          サロメのような資本主義

          タマラ・ド・レンピッカの悩ましいまでの美貌。 自由奔放な行動様式。 魔性さえ秘めた蠱惑的な性の魅力。 それらはどこか貨幣の性質を思わせる。その強度、疾走するようなスピード感、なにものにも束縛されない自由さ、あるいはとろけるような官能から悪趣味になりかねない奢侈までもが、貨幣そのものではないか。 狂乱の時代と呼ばれた1920年代のパリにあって、レンピッカの奔放な生き方とその独特の絵は、不思議な輝きを放っていた。不思議な、というのは、彼女にまつわるものがバラバラに動きまわり、好

          サロメのような資本主義