直江兼続「直江状」
秀吉が亡くなり、家康が、秀吉の決めた法令に違反するような行動を取るようになって、だんだんと家康の政治的影響力が強まっていく中、五大老の1人、上杉景勝は直江兼続に命じて、武器を集めたり、地元に新しい城を築城させたりしていました。
それを見た近隣の大名たちが、「上杉が謀反を起こすために軍事力を強くしようとしているのでは・・・」と思い、上杉の動向を家康に報告しました。
そして家康が上杉に、「軍事力を強めようとしていると報告があった。逆心がないのであれば、こちらに来て弁明すべき」というような内容の手紙を送りました。
この時点で、大きな権力を握っていたのは家康でしたが、家康は秀吉の後継者というわけでないので、上杉からすれば、「家康は天下人気取りになっている」ように感じたことでしょう。そんなこともあってか、返事としての手紙、直江状を送りつけました。ものすごく長い手紙なんですが、簡単にまとめると・・・。
「会津に戻ったばかりで、そう何度もそちらに行っていては、こちらの仕事ができない。確かに武器は集めていますが。あなたたちが茶器などを集めているのと同じように、田舎武士は武器を集めているだけのこと。築城なども、こちらの領内の整備を発展させていくためのもの。謀反を起こすためなら、そんなことではなく、交通を遮断しますよ。証拠もなく謀反だなどと言う誰かさんは、太閤さまのご意志に従わず、好き勝手やっていますね。」
というような、家康をあざけるような、挑発するような内容でした。これを読んだ家康は激怒!!上杉征伐を決意します。
家康は、息子の秀忠を総大将とする軍勢をまず会津に送り込み、その後、家康本人も会津に向かいました。その時、石田三成が挙兵。家康は上杉征伐を中止して、関ヶ原の戦いへと突入していくこととなりました。
関ヶ原の戦いでは家康の大勝利。家康は天下人となりました。三成に味方した上杉家は敗者となりますが、家康に謝罪し、収入は1/4に減らされたものの、米沢にて存続は許されました。
兼続は米沢城下の治水事業に力を入れ、米沢藩の藩政の基礎を築いていきました。生涯、側室を持たず、お船の方という正室のみをパートナーとしていた兼続。嫡男はいましたが、早くに亡くなり、婿養子をとっていた娘も早く亡くなったため、養子を解消、兼続の死後、養子を迎えなかったので、お船の方が亡くなると同時に、直江宗家は断絶となりました。