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ゴールの無いマラソン
1988年5月10日火曜日
僕は初めて死んだ
中学三年生だった
あの日、僕は大分市の実家にいた。
前日の大雨で、僕は喘息発作を起こし、布団の上に座ったまま酸欠状態で一睡も出来ないまま、意識が朦朧としていた。
少しでも気を抜くと、呼吸が止まる状態だった。
呼吸をする、ただそれだけのために全神経を使い、全力で肺を動かし必死だった。
小学四年生の12月から小学六年生の4月まで、僕は国立西別府病院に入院し、隣接していた石垣原養護学校に通いながら、喘息の鍛練療法で体を鍛えながら喘息の治療を試みていた。
起きてから寝るまで、ひたすら体操や筋トレや走り込みをして、腹式呼吸の練習をした。
1年4ヶ月入院したけど、残念ながら僕の喘息は治らなかった。
ただ、喘息発作が起きた時に、腹式呼吸で意識的に呼吸をし、暫くは発作を我慢出来るだけの筋力・特に腹筋の筋力と、ひたすら諦めずに呼吸し続けるための精神力は鍛えられた。
そのため、幸か不幸か、僕は前日から一睡もせずに、一度も呼吸を停止させること無く、腹式呼吸をし続ける事が出来た。
ただ、それも気力との勝負だった。
少しでも気を抜くと呼吸が止まる。
少しでも寝てしまうと呼吸が止まる。
だから、僕は絶対に呼吸を止めないように頑張った。
ひたすら呼吸することに集中した。
余計なことはしない、余計なことは考えないようにした。
兄弟は二人とも学校に行ったようだ。
父ちゃんも会社に行ったのだろう。
母ちゃんは大分南高校の購買部に働きに行ったのだろう。
爺ちゃんと婆ちゃんは、僕が喘息発作で苦しんでいることに気付いていないのだろう。
いつものことだけど、僕は一人きりで戦っていた。
あと、一回だけ全力で呼吸をしてみよう。
あと、一回だけ呼吸を頑張ろう。
終わりが見えないけど、とにかく、何も考えずにそれを繰り返すしか無い。
早く病院に行きたい。
でも、立つことも声を出すことも出来ない。
もう、呼吸をする体力もギリギリの状態だ。
だから、今の僕には家族が帰って来るのを待つことしか出来ない。
それまで、何とか呼吸を維持させないといけない。
あと何回呼吸をしたら家族が帰って来るのだろう?
とりあえず、100回呼吸してみよう。
あれ?
何回呼吸したかな?
もう数えるのは止めよう。
とにかく、今の呼吸に意識を集中させよう。
もう、腹筋も限界だ。
そろそろ、腹式呼吸は無理かな?
今何時だろう?
ゆっくりと吸ってゆっくりと吐く。
たったそれだけのことが難しい。
腹筋が震えて腹式呼吸が出来なくなってきた。
普通の肺呼吸に切り替えよう。
僕は普通の肺呼吸に切り替えた。
息が吐けない!
息が吸えない!
自然と浅い呼吸になる。
呼吸が浅いと自然と呼吸が早く回数が多くなる。
まともな呼吸がほとんど出来ていない。
少しずつ爪の色が紫色になってゆく。
腹式呼吸に戻そうにも、もう腹筋に力が残っていない。
僕は必死に肺を膨らまそうとした。
でも肺は既にパンパンに膨れている。
僕は必死に息を吐いて、肺の中の空気を抜こうとした。
でも、全く息を吐けない。
気管支が閉塞している事が感覚として伝わって来る。
ああ、最期の時が近い。
僕は、どうせ最期なら、思いっきり咳き込んで、気管支に詰まっている痰を出そうと思った。
もう、腹筋に力が入らない。
咳き込むことが出来るのは、一回だけだろう。
これは賭けだ。
最期のあがきだ。
腹筋の力を思いっきり使って、思いっきり咳き込もう。
僕は、思いっきり息を吸った。
そして、息を止めて10秒数えて咳き込む準備をした。
胸を叩いて肺を刺激して、お腹をマッサージして少しでも腹筋に力を溜め込んだ。
チャンスは1度きり。
失敗したら諦めよう。
つまり、僕は死ぬのを待つだけということだ。
そして、僕は一気に咳き込んだ。
何かに祈りながら必死に咳き込んだ。
文字通り、命懸けの咳だ。
僕は、限られた咳の回数を無駄にしないよう、咳き込みながら胸を叩いた。
気管支に詰まった痰が、少しでも移動してくれる事を期待して、必死に咳き込みながら胸を叩いた。
どれくらい咳き込んだだろう?
もう、息が続かない。
そろそろ終わりだ。
そう思った時、何とか痰が出てくれた。
ティッシュに痰を吐き出すと、痰が血だらけだった。
前日からの発作で気管支が傷付いたのだろう。
とりあえず、空気の通り道が出来たはずだ。
僕はゆっくりと息を吸った。
僅かだけど、咳き込む前よりは息が吸える。
僕は大きくゆっくりと息を吸って息を吐いた。
心臓が暴れるように激しく鼓動している。
早く呼吸したい気持ちを抑えながら、冷静になり、ゆっくりと呼吸することを心がけた。
爪の色も良くなってきた。
良かった。
ただ、喘息発作が起きている時は、気管支が炎症を起こして、気道が狭くなっている。
咳き込んで痰が取れたとしても、気道が狭くなっている事には変わりが無い。
狭くなった気道に詰まっていた痰が取れたに過ぎない。
気管支炎が炎症を起こしているということは、痰が分泌され易いということであり、気道が狭いということは、痰が詰まりやすいということだ。
咳き込んで痰が取れたというのは、一時しのぎなのだ。
とにかく、家族が帰って来るまで、何とか頑張って呼吸するしか方法は無い。
僕は、がむしゃらに呼吸した。
ゴールの無いマラソンのようだった。
どれだけ時間が経ったのだろう?
何回呼吸をしたのだろう?
また、気管支に痰が詰まり始めた。
もう無理だ。
もう終わりだ。
くそう!くそう!
そう思っている時に、誰かが僕の肩を叩いた。
横を見ると母ちゃんがいた。
助かった!
僕はそう思った。
母ちゃん「発作治らない?」
僕「・・・」
母ちゃん「喋れない?」
僕「・・・」
母ちゃん「病院行く?」
僕「・・・」
母ちゃん「・・・」
僕には返事をする体力が残っていなかった。
せっかく母ちゃんがすぐ側にいるのに!
母ちゃん「我慢出来る?まだ仕事が残ってるから」
僕「・・・」
母ちゃん、察してくれ!
返事が出来ないってことがどういうことか!
母ちゃん「じゃあ、行ってくるね」
僕「・・・」
くそう!くそう!
何でだ!?
もうダメだ!
このチャンスを逃したらダメだ!
死にたく無い!
何とかして伝えなきゃ!
僕は机を叩いた!
でも、思った以上に弱い。
気付いてくれ!
僕は、ありったけの気力を絞り込んで、言葉を発した!
僕「うう・・・」
とてもか細い声だった。
でも、それが限界だった。
さすがに母ちゃんも異常事態に気付いてくれた。
母ちゃん「苦しい?病院行く?病院行くなら頷いてくれる?」
僕はありったけの力を振り絞って頷いた。
母ちゃん「判った。病院行こう!」
助かった!
僕は安堵した。
そこから母ちゃんの行動は素早かった。
母ちゃんはかかりつけの病院に電話をして、喘息発作であることを伝え、これから病院に向かうと伝えた。
そして、僕の肩を抱き抱えて立ち上がり、僕を車に乗せてくれた。
今考えると、かなり重かったと思う。
車で病院に向かっている途中、母ちゃんは泣いていた。
その涙の意味は当時判らなかったけど、僕も子供が出来て今は何となく理解出来る。
車の中で、僕は必死に呼吸した。
文字通り必死だ。
でも、そもそもギリギリの状態だった。
既に手遅れだったのだ。
救急車を呼ぶという判断をしなかった時点で、僕の死は確定していたのだ。
病院に着く前に、僕は完全に呼吸が出来なくなってしまっていた。
薄れ行く意識を保ちながら、病院に着くのを待った。
意外と冷静に意識が薄れ行くのを感じていた。
病院が見えた。
ギリギリ助かるのか?
そう思いながらも、時間が止まっているように感じた。
病院が見えているのに、病院に着かない。
そして、少しずつ自分が消えて行く感覚がし出した。
病院からストレッチャーを玄関に出して待っている人が見えた。
永遠と思える時間の中で、永遠続くと思われるような苦しみが続いた。
そして、唐突に胸に激痛が走り、一気に自分が消えて行く感覚に陥った。
そこで僕は、ストンと意識が無くなってしまった。
気が付くと、いつもの病室にいつもの患者仲間がいた。
「たっちゃん」と「つっくん」は年下で小学生だけど、とても仲の良い患者仲間で、僕も含めて入院回数が多く、病棟の長老的な存在だった。
たっちゃん「よう!死に損ない!」
つっくん「やっと、死から生還した、死に損ない仲間になれたね!」
僕「・・・」
たっちゃん「まだ喋れんの!?つまんないの!」
つっくん「仕方ないよ、少し前まで呼吸も心臓も止まっていたんだから。」
僕「・・・」
僕は、そこで初めて心肺停止状態だったことを知った。
子供は時として残酷なことを平気で言う。
というか、そういった強がりを言ってないと、精神的に耐えられないのだ。
当時の僕達にとって、死ぬことは生活の一部だったから、次に死ぬのは自分かもしれないと、死を恐れる毎日だった。
皮肉な話しだが、死を実感すると、強烈に生きていることを実感するのだ。
僕達は、自分や仲間の死を実感する度に、自分が生きていることを再確認していたのだ。
そして、誰が最期まで生き残れるか、賭けをしていた。
僕達は、とても悲しいレースをしていたのだ。
ある日突然仲間の病状が急変し、翌朝には看護師さんがやって来て仲間が何の挨拶も無く退院したことを知らされる。
子供達もさすがに、仲間が死んだことを悟る。
そして、みんなで祝いの言葉を看護師さんに告げる。
みんな「それは良かった。もう苦しまなくて良いんだね。」
それは、心からの本音だった。
それと同時に、次は自分かもしれない、と心から怯えていたのだ。
あれからもう30年。
生き残っているのは僕だけだ。
僕はレースに勝ったのだ。
僕はあの時、初めて死んだ。
それから何度か死んだ。
でも、僕は今でも生きている。
今は喘息の治療法も進歩し、昔のように発作が起きることは無くなった。
次、僕の呼吸が止まり、心臓が止まる時は、僕が本当に死ぬ時なのかもしれない。
その時は、先に逝ってしまった「たっちゃん」や「つっくん」も祝福してくれるかな?
僕には彼らとの約束がある。
彼らが出来なかったことを出来る限りやり、彼らが生きていたことに意味を持たせること。
それは、僕が必死に生きて、少しでも多くの人の人生に影響を与えること。
僕は彼らの人生から大きな影響を受けた。
だから、僕が他の人に影響を与えれば、彼らの人生が無駄では無かったことになる。
少々背負っているものが大きいような気がする。
でも、どちらにしても、生きるということは命のリレーであり、誰かから受け取ったバトンを次の世代に何らかの形で渡してあげなければならない。
僕は、彼らから受け取ったバトンを渡すまでは、今を必死に生きないといけないのだ。
まだまだ先は長いようだ。
ゴールの無いマラソンのようなものかもしれない・・・。
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