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私は私と会話をすることで癒えていく

生きるうえで大切なことって?

生きていくうえで、わたし(もしくは人間一般的)には何が必要かと問われたら、まずまっ先に愛情と回答します。人は、誰かから愛されるからこそ生きる意味があるのであって、愛のない、愛されない人生なんて悲しいなと思っています。

でも、これは私の認知の歪みであるようで、この信念を強く持ってしまっている私は、少々自分を生き辛くしてしまっていることが分かってきました。

暗黙の仮定とは?

冒頭で、「生きていくうえで、わたし(もしくは人間一般的)には何が必要か」と書きましたが、この概念のことを暗黙の仮定と呼ぶ場合があるようです。端的に言うと、個人的に、人生において何に依存をしているか、何に価値があると考えているかということです。

自分自身の暗黙の仮定を確認する方法の一つである「態度の歪み発見スケール」(DAS)を試したところ、私の結果は下記のようになりました。

態度の歪み

0より上のプラスの点数だと、その人がその価値に心理的に強いことを表し、逆にマイナスだと気持ちが傷つきやすいことを表しています。

私自身の診断結果はというと、業績依存度と自律性以外はマイナスでした。こんなにも自分が傷つきやすい人間だとは知る由もありませんでした。
その中でも、一番低い点数がついていたのは愛情依存度でした。

それぞれの説明はここでは割愛しますが、愛情依存度が顕著にマイナスになっていることの意味するところは、私が私自身の価値を、人から愛されているか否かで判断する傾向があるとのことです。

これは、もうまさしくその通りです。
私は、潜在的に、誰かから自分自身が愛されているなと感じることができれば、自分の人生は満たされ、幸せな日々を暮らすことができるという考えを持っているのです。

みなさんの憂鬱スイッチは何ですか?

ここで、いきなりですが、みなさんは、どのような時に、憂鬱になりますか?
デビッド・D・バーンズ著の『いやな気分よさようなら コンパクト版』で、著者は鬱状態の完治について下記のとおり述べています。

治ったような気がすることと、本当に治ったこととの間にはいくつかの違いがあります。治ったような気がするということは、良くない兆候がときどき現れる状態です。本当に治った場合とは、次のような状態を指します。
1 どうして憂うつになったかその原因を知っている。
2 なぜ、あるいはどうやったら良くなるかがわかる。
3 自信と自負心を持つこと。
4 もっと深く憂うつの原因を探ること。

まず、鬱状態と綺麗に別れるための第一ステップとして、自身が憂鬱な気分になった時に、どうして自分が憂鬱になったかの原因を認識する必要があるのだと説いています。

私の場合、憂鬱スイッチの一つにどうも愛情依存というのが関係していることが分かってきました。憂鬱スイッチは、自分の暗黙の仮定と結びついていることが多いようです。

幼少期のはなし

私は3人姉弟の長女として生まれました。
昔から、「お姉ちゃんだから」と両親を困らせないように良い子に振る舞っていた子供だったと思います。

だったのですが、今でも寂しい・ネガティブな記憶として根強くある一つが、親の隣で寝たかったのにそれが叶わなかったということです。おそらく3歳か4歳頃までは両親と一緒に寝ていたと思うのですが、ある時から私は自分の部屋で寝るようにと母から言われ、「お母さんの隣で寝たい」と嘆いても喚いても、「自分の部屋で寝なさい」と母に跳ね返され、私は一人泣きながら自分の部屋で寝ていたという記憶があります。(もしかしたら、何度も思い返しすぎて少し誇張された記憶になっているかもしれませんが・・)

大人になった今では、これは、親が私に自立を促すためにとった行動であり、一人で寝られるように教育をしてくれていたのだと理解ができます。ですが、どうしてかこの記憶がネガティブな悲しいとか寂しいとかという感情と結びついて残ってしまっているのです。

当時の幼い私は、なぜ弟は母と父の隣で寝ることができるのに、自分は独りで寝ないといけないのか理解ができなかったのです。そして、気持ちよさそうに寝る弟のことを本当に羨ましく、時には妬んでいました。そしてその結果、無意識的に、自分は親に愛されていないという思考が心のどこかに生まれてしまったようです。

これが、私の愛情依存度がマイナスである要因の大きな一つだと分析しています。幼少期に芽生えた自我は大人になってからの思考や価値基準にわりとダイレクトに結びつくようですね。

今現在のはなし

結婚当初、私は慣れない環境での生活や打ち込みすぎた仕事のためか、メンタルが結構荒れていました。(今年になり体調を崩し、「適応障害」との診断を受けたのですが、思い返せば結構前の結婚当初からメンタルがズタボロだったんだなと思っています。)

そんな中、憂鬱になって涙が止まらず眠れない日があると、夫に泣きつくことがありました。夫も仕事で忙しくしていることは頭では分かっているのですが、それでも泣きついて「慰めてほしい」「自分に構ってほしい」と思ってしまう私がいたんですよね。それが深夜3時という時もありました。夫もそばで私が気が済むまで寄り添って話を聞いてくれる日もありましたが、私の隣で知らぬうちに寝ている日もありました。

今では、夫が寝てしまうことは当たり前だと思います。だって、彼も仕事で忙しくしていて疲れていたのですから。冷静に考えると、本当に迷惑を掛けた夫には申し訳なかったなと思うのですが、その時の私の思考回路はというと、「この人は私がこんなに泣いているのに寝てしまうなんて。きっと心配していないのだろう。私は愛されていないのかもしれない」となってしまっていたのです。(ほんと、とんだ妻ですよね(笑))

愛されない=私の人生意味がない

極端に表現すると、「愛されない私なんて生きている意味がない」とまで思って憂鬱になってしまっているのです。

実際には、両親も夫も私を愛してくれています。
それでも、私は、邪険に扱われただとか、無視されただとか、自分自身がそう感じてしまうと、「私はこの人から愛されていないのだ」という思考に陥り、憂鬱スイッチが入ってしまうのです。

この思考回路を認識することができ、なんだかちょっと楽になりました。

人生の価値を求めること自体無価値である

そもそも、今は、人生において、価値を考えても何の意味がないと思うようにしています。愛されることは、たしかに私の人生を豊かにするものなのかもしれないけれど、それは私自身や私の人生において必要不可欠なものではなく、愛されていると自分が感じられるか否かでどうして自分の気持ちが昂ったり落ちたりするべきなのか?と少しずつ思えるようになってきました。

確固たる現実は一つです。ただ、その現実を自分自身がどう解釈するかで自分が元気になったり憂鬱になったりするのです。複雑ですが面白いですよね。

たとえ私がどれだけ人から愛されていようと、そういうことが現実に事実として起きていようと、私が「愛されていない」と思ってしまえば、私は事実に反して愛されていないことになるのですから。


私は私と会話をすることで癒えていっています。
30年弱私は私として生きてきたけど、自分のことって案外全然わかっていないのです。気付きを与えてくれる、自分と会話をする機会を与えてくれるnoteや読書や身近な人との会話はとても貴重です。

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おわり

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