火をつくる
今も火起こしが上手とは言えない。以前はもっと下手だった。新聞紙を大量に使い、牛乳パックやガムテープを焚き付けに使った。ライターを手放した。麻ひもをほぐしてファイヤースターターで火花を散らし、着火できるようになった。
麻ひもを使うことに疑問を持った。外国で麻を収穫して、外国の工場で紐を撚る。輸入してほぐして火口にするなんて、わざわざ紐に加工して海上を輸送する意味がないのではないか。
火口や着火剤を、自然から求めるようになった。休業している公営のキャンプ場に松の倒木があり、枝元から切ると飴色の松やにが含まれていた。鰹節のようにナイフで削り、着火剤として使う。
11月、土手を歩いていると思いがけずチガヤが綿毛をつけていた。本来は初夏につけるのだが、草刈りや野焼きで攪乱され、秋に咲くことがある。細く柔らかい毛がびっしりと生えていて、ススキよりも、麻ひもよりも火のつきが良い。
難点はあっという間に燃え尽きてしまうことで、松の木片が役に立つ。瞬発力のチガヤと、持続力の松を組み合わせる。
現代人は巨大な火力を手にしながら、日常生活では火から遠ざかった。危ないからやめなさいと子どもは言われ、家はオール電化が進んでいる。少し前まで、子どもは遊びとして火に戯れ、焚き付けを集めたり薪風呂を沸かすのが仕事だった。
日本兵の横井庄一氏は、敗戦を知らぬまま28年間、グアム島で隠れて生きた。初めはレンズによる集光で火をつけていたが、レンズをなくしてしまう。火打石や木の錐もみを試すが失敗、最終的には割り竹を十文字にして擦り合わせて火種を得た。同じころ、フィリピンのルバング島で小野田寛郎氏も割り竹を擦って火を熾していた。
人間にとって、火は水と同じく生きるか死ぬかを決定づける。何が何でも火をつけるのだという執念が、人類の培った知恵を蘇生した。そしてもうひとつは、類稀なる観察力である。
何万年、何十万年という太古から、古代人は火をつくった。野火はなぜ起こるのか。乾いた季節、強風で木と木が擦れて白い煙が立ちのぼるさまを、古代人は見ていた。
1991年、オーストリアとイタリアの国境にある氷河で、約5千年前の男性のミイラが見つかり、「アイスマン」と名づけられた。彼は黄鉄鉱を持っていた。まだ鉄のない時代、黄鉄鉱と火打石で着火していた。その証拠に、腰に巻いた革袋から火口が見つかった。サルノコシカケ科のカンバダケとツリガネダケ。キノコに火花を落として火種を得ていた。
日本でもその昔、キノコが火口として利用されて、今でもホクチダケと呼ばれる種がある。人類は山を渉猟し、五感をはたらかせ、火をつくるための素材を見つけていたのだった。そのことに私は深く感動する。古代人は、現代人よりもはるかに火について知っていて、霊性まで見ていた。
歩く速度には意味がある。電車や車で行き過ぎ見落としているものを、視覚のみならず嗅覚や聴覚、触覚まで動員して見つけ出す。観察には生きるための目的意識があり、畏怖と歓びがある。
火は人生に似ている。たったひとつの火花が着床して火種になり、火を育てる。炎は大きく揺らめき、やがて鎮まり、燠になる。最後の熱を放ち、消える。
少しだけ燃やし、少しだけ生きる。