なぜ人は味方を求めるのか
つい先日、職場で2時間もやりあってしまった。久々にストレスで寝つきが悪くなり今も頭が冴えない。
口論の経緯や、どちらにどう非があるのかの分析をここに書く気はなくて、「そういう相手なので対策をしておく」と考えている。良識的なあなたが「お前が対策をされる側ではないのか?」と疑うのは承知していて、この記事では私がそれに対してどう考えたかと、そこからの気づきを書いていく。
正直相手の言葉はほとんど真に受ける必要がないように思っていて、理由としては「そんなことを面と向かって言う人は他にいない」から。管理職が部下に言うのは見かけるので、より正確には「立場を超えている」(ようするに偉そう)な発言だと流すことにした。
私の職場での評判に関しても忠告したかったようだが、本人が(無意味に)周囲と衝突しているのでアテになると思えない。「口に出さないだけで皆そう思っている」などと言われても、深刻な問題であれば表立って抗議されるというのは自分自身で証明しているのではないか?
ここまで書いて、結局のところ判断は自分自身でもグローバルなものでもなく周りの人間を基準としていると気づく。清廉でない気もするが、合理性や信念を突き詰める組織風土ではなく、来歴からもその必要性はないと考えられる。つまり、周りの人間を基準としていいかも周りの人間から分かる。
ところで、私はあまり普段はこのようなことを意識しない、というよりせずに済むほうが良い人生だと考えている。話しやすい相手を味方として集めようとする同僚に辟易していたし、厳格がゆえに煙たがられる人間に一目置くことはある。誰が味方なのか考えるのは、敵が見えてしまったからということだろうか。
逆に考えると、敵味方で分けない思考ができていたのは衝突することがあまりなかったから、ということになる。それには私の努力の結果も含まれているとは思うが、単に環境的な要因、すなわち周囲に恵まれていたというのもあるだろう。自分を人格者などと過信しない方がよさそうだ。
今まで「自分の敵は、周囲を敵味方に分ける人間だ」という意識があったように思うが、それですら人を敵味方に分ける行為だったのかもしれない。件の人物に包囲網を敷くわけではないが(それこそ管理職から見て敵になりかねない)、組織全体と自分自身を守れるように行動したいと思う。
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