【映画感想文】ロボット・ドリームズ
80年代のニューヨークで独り暮らしする(犬)のドッグが、友達欲しさに購入したロボットとの出会いと生活を描くアニメ映画『ロボット・ドリームズ』の感想です。
いかにもアメリカのカートゥーンチックな絵柄と、コメディっぽいのにどこか切なげな予告編に惹かれて観に行ったんですが、とても良い映画でした。ドッグとロボットという、その出自も成り立ちも違い、本来ならば(買主と所有物ということで)主従関係にもある2体がお互いを思いやることで対等になり、その関係を保ったまま別れて行く物語であり、それを男女、友人、家族に代入することで様々な愛(絆)の物語にもなり、そして、個人的には(ここに最もグッと来たんですが)ある時期の街の姿を切り取った街(というかニューヨーク)映画でもありました。
私事ではありますが、90年代後半と2000年代前半に2度ほどニューヨークに行ったことがありまして、どちらも2週間前後滞在していたくらいなので、住んでいたとはもちろん言えないんですが、ただ、観光に来たというよりは生活してた感覚に近いといいますか。最初に訪れた時は、その時付き合っていた彼女が渡米してニューヨークに住みながらバンド活動をしていたので、その彼女に会いがてらマンハッタンのライブハウスを観て回ったりしてたので、まぁ、観光と言えば観光に近かったんですけど(とはいえ、エンパイアステートビルや自由の女神みたいな、いわゆる観光地には行ってないんですが。)、特にホテルなども取らず、当時の彼女の家やその友達の家を点々として、そういうアンダーグラウンドなバンド界隈の人たちとの暮らしを共有していたんです。で、この頃のニューヨークというのが僕にとっては憧れの地で。80年代から続くアンダーグラウンドなアートやカルチャーの発信地であり、ヒップホップやノーウェイブ・パンクなどいわゆるオルタナティブと言われる音楽が産まれ、それが世界的に流行り始めた頃で、マンハッタンから少し離れたブルックリンやクイーンズなどの友達の家に泊めてもらっていると(バンドマンやグラフィックアーティストなどが廃工場みたいなところをシェアしながら生活している家もあったりで、)そういう最先端のカルチャーに生活レベルで触れている感覚があり、街をぶらぶらしているだけで刺激的だったんです。ただ、同時に自分は単なる来訪者というか、そこでカルチャーを生み出している友達たちとは違うんだという孤立した感覚もありまして。この『ロボット・ドリームズ』で描かれてるニューヨークは、僕にとってはまさしくこの時のニューヨークだったんですよね。
2度目のニューヨークは自分がやってるバンドでライブをしに行ったので、1度目とは違い、あの時受け入れられなかったニューヨークに挑む気持ちが大きかったんですけど、それ以上に違ったのが2度目のューヨークにはツインタワーがなかったってことでした。僕が訪れたときには既に街は復興していてツインタワー跡地には慰霊碑が立っているという状況だったんですけど、1度目に訪れたときのような、雑多で各々がそれぞれのアイデンティティで好きなことをしている、カオティックで刺激的な(ちょっと怖い)ニューヨークとは少し違った空気をしていたんです(もちろん、まだまだアートやカルチャーの発信地であったのは間違いなくて。だから、ライブしに行ったんですけど。90年代から続いてたストリートから何かが生まれて来るあの感じの終焉の始まりのようなものを感じたのかもしれません。)。この映画でもツインタワーが象徴的に何度も登場します。それが何を示唆しているのかは分かりませんが、確かにこの映画で描かれるニューヨークは、僕が1度目に来訪した時に感じた、あのカオスで自由なニューヨークなんですよね。
で、それが主人公のドッグの若さのメタファーにもなっているんじゃないかと思うんです。若さゆえの”誰も分かってくれない”っていうイキリと寂しさからくる孤独感。そして、それが言葉もバックボーンも分からない他人と通じ合えたときの喜びやワクワク感に変化していく。素晴らしいのは、その表現をセリフを一切使わないでやるんです。これは言葉そのものが違う他民族同士との関係なのかもしれないし、文化の違いからくる伝わらなさかもしれない。そうなると、もう、人として(犬とロボットですけど)の心の部分で理解するしかないわけで。その言葉では伝わらない何かを描くことを、この映画ではもの凄くシンプルな線だけで描かれた2次元のアニメ・キャラでやってるんですね(カートゥーン的アニメキャラと書きましたが、観てる間に、これは90年代のMTV的アニメ・キャラだなと思いました。その時代感もとてもグッとくるところでした。)。ちゃんと相手の顔を見て、少しだけ口角が上がったとか、目線がどこを見てるかとか。相手の微妙な変化から考えてることを察して理解してあげようとする。優しくされたいとか理解されたいという思いで接した他人に対して、優しくしたいとか理解したいというふうに反転する気持ち。それが好きということだったな。そんなことをひさしぶりに思い出しました。
そして、それを永遠の日常として描けばよくある日常系アニメになるんですけど、そこで終わらないのがこの映画といいますか。だって、9.11以前のあの頃を描いているんですから。そもそもその後にいろんなことが変わってしまうこと前提の舞台設定にしているんですから。いろいろあって終わってしまったものももちろんある。時代も変わって街も人々の生き方も変わって。それでも犬とロボットの相手を思う気持ちっていうのは変わらなかったんですよね。というような。そうであって欲しいというような。そんなことをしみじみ考えてしまう、せつなくてかわいいアニメ映画でした(そういえば、僕が2度目に訪れたとき唯一行った観光地的な場所が、恐らくドッグとロボットが最後に遊びに行った遊園地。コニーアイランドだったんです。)。
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