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短編小説【私が鳴くとき】

「オンドリ」

僕の中学生の頃のあだ名だ。大正時代から続く農家に生まれ、両親共に日本人だが、僕の髪は何故か赤みがかった明るい茶色だった。 

雄鶏のトサカのようだと小学校の頃から同級生にからかわれ、中学校に入学すると、黒く染めてこいと担任の教師に言われた。異端を排除する気風は昔も今も変わらない。

母が何度も髪染めをしてくれたが、すぐに落ちてしまい、そのたびに教師に怒られる。同級生に笑われる。それでも僕はだまっていた。何も言い返さない僕のことを先生は、「鳴かないオンドリ」と呼んだ。


鍋が沸騰しているのに気が付き、はっとする。塩を入れてブロッコリーを放り込む。湯をくぐると一瞬で深緑からエメラルドグリーンに彩度が上がる。冬のブロッコリーと違って旬のものは灰汁が少ない。

さっき、由美と昼食を食べたばかりなのに、もう腹がすいている。ブロッコリーをおやつ替わりにしようと思った。ブロッコリーは少し歯ごたえのあるくらいが好みだ。油断すると芯がなくなる。ぐらぐらと煮え立つ湯の中でブロッコリーが踊り狂う。


父方の叔父も赤毛だった。僕は叔父に似ていると言われるのが嫌だった。

 

ブロッコリーを見つめながら、少年の日のことを思い出す。三十九歳の叔父は、小学生の僕には、ずいぶん大人に思えたが、今年、僕はその年を越えた。僕の赤かった髪の毛には白髪が混じり、グレーに近くなってきた。

湯をざあっと捨ててブロッコリーをざるに上げると、わあわあと湯気が立つ。甘い香りを嗅ぎつけた由美が、日中テレワークをしている寝室から出てきた。由美とは、一緒に住み始めて三年目になる。昨年籍を入れたのだが、寝室は別だ。

由美は、ブロッコリーをひとつ取り、あちちと言いながら、何もつけずにほおばる。

「春の味だね」

由美はもうひとつブロッコリーをつまみ、僕の鼻先に持ってくる。僕が食べようとすると、由美はひらひらとブロッコリーを動かして、なかなか食べさせてくれない。

午後二時の光が、曇りガラスを通してキッチンを温めていた。陽射しを浴びた由美の頬の稜線に産毛が光る。

ついに、由美の手から、ぱくっとブロッコリーを食べると、由美は笑い声をあげて、僕に抱きついてきた。僕はハッとして身を引き、立ち尽くす。

「やっぱりだめ、なんだね」

由美は僕へ伸ばした手を自分の背中に隠し、照れくさそうに笑った。

そして、僕の髪を優しくなでると、寝室に戻っていった。僕はひとり両腕をだらりとたらし、白けてしまったキッチンに立ち尽くしていた。


「よくあることだよ」


抱けない僕を、優しい由美は責めなかった。今年三十八歳になる由美が、ずっと子どもをほしがっていることを、僕は知っている。でも、付き合って何年経っても僕は由美をこの腕で抱きしめられていない。理由はわかっていた。

叔父からの罰なのだ。


叔父の明は母屋から離れた小さな蔵の二階にひとりで住んでいた。叔父を思い出すと、爬虫類の腹のような土壁のヒヤリとした感触がよみがえる。部屋に籠ったまま出てこない叔父に朝晩食事を運ぶのが小学校にあがったばかりの僕のお手伝いだった。

父は、跡継ぎのいない農家の休耕田を買取り、大型のトラクターを導入し、一代で財を築いた。そんな父が、働かず、結婚をしない叔父を疎ましく思っていることは感じていた。

僕がふすまを開けて、膳を部屋に差し入れても、叔父は文机の前に正座をしていて、振り返りもしない。 

みんなに似ている似ていると言われる叔父の顔を見たことは、幼いころはあったろうが、記憶になかった。ただ、後ろ頭の赤茶けた髪の毛を見るだけで苦しくなった。

まだ冬の寒さが残る頃だった。はあっと白い息を手に吹きかけ、朝七時きっかりに小さな膳をもって蔵へと歩く。霜柱を踏むのに夢中になっていると、梅の香りがすっと差し込む。僕は蕾が少しだけ開いた梅を一枝手折って、いたずら心で膳にのせた。

いつものように、膳を部屋の中に差し入れ、戻ろうとすると、叔父がくるりとこちらを向いた。叔父は入口まで歩いてきて、片手で膳を持ち、梅をつまんで「そろそろ、春だな」と言った。

「名前は、幸一だったね。お前、いつも一言も話さないな」

叔父は、戸惑って喜怒哀楽のどれでもない、曖昧な表情をぶら下げて立ち尽くす僕を見て、声を立てて笑った。

「梅の香りをかいで、話して、笑って。今日は俺にとっちゃ珍しい日だ。盆暮れ正月が一度に来た」

そんなことより、僕は叔父と自分が似ていないことに安堵していた。切れ長の目の下にある細い鼻筋は三日月のようなカーブを描いていて、横顔が美しかった。

「無口なんだな。無駄口たたくよりは利口に見える」

それから、叔父は気が向くと、僕に話しかけるようになった。たぶん、無口な僕なら、聞いた話を誰にも言わないと思って安心したのだろう。

叔父の話は、すべて僕の父のことだった。それも細かい所までよく覚えているのだ。屋根から落ちたツバメの子を父が木によじのぼって巣にもどしたこと、竹の棒でいじめっ子から叔父を守った話。

子ども時代の父がいかに自分のヒーローだったかを話しているときの叔父は生気がみなぎる。長くて赤い前髪からのぞく目が潤んで輝いていた。そして最後には必ずこう言うのだ。

「兄は、僕が外に出ないとうるさく言うが、少しは安心してるんだよ」

母にそれとなく聞くと、叔父は子どものころから、からだは弱かったが優秀で、運動以外なら何をさせても父より優れていたという。一方、若いころの父は血の気が多く、喧嘩してもめごとを起こすことが多かった。亡くなった祖父は、叔父が蔵に籠るまで、「跡継ぎは明にする」と父の前でも言っていたらしい。


「大学を出て帰郷したら、兄はぼくを憎んで口もきかなくなっていた」

叔父が自分に話すようになったことを、僕は両親に言わなかった。酒を飲むと父は叔父のことをぐだぐだと悪く言う。父に対しても叔父に対しても裏切り者になる気がした。

父から叔父へ手紙を預かり、渡すこともあった。きっと苦情が書き連ねてあったのだろう。叔父は、すぐに読むのを止め、苦しそうに言った。

「ぼくがどうして、籠っているのか兄さんにはわからないんだ」

そして、手紙を丁寧にたたんで、桐の文箱に大事そうにしまった。

きっと、叔父は、無口な僕を土壁の沁みだと思っていたのかもしれない。僕からの返事も理解も期待せずに話していたのかもしれなかった。

叔父と同じ年を重ねた今でも叔父の言っていたことすべてを理解できていない。でも、僕の中に沁みとおった記憶の中のひとつひとつが今日は何だか思い起こされる。昨夜、父がそう長くないと母から電話があったからかもしれない。

キッチンの洗い物を済ませ、寝室の前へ行く。喧嘩をしたり、機嫌が悪くなると由美は寝室に立てこもる。

僕は音を立てないようにそっとドアノブを回す。ドアノブはかちゃりと小さな音を立てて開いた。寝室に入るとベッドの上に由美が服のままうつぶせに寝ていた。頬には、ショートカットの髪の毛が涙で張り付いていた。

僕はベッドに腰かけて由美を見つめた。目をつむっているけれど、由美はきっと起きていると思った。でも、僕は抱き寄せることはできない。これ以上由美を傷つけたくなくて、静かに寝室から出た。

僕はシャワーを浴び、部屋着にしている紺のスウェットを脱ぎ、細身のパンツに履き替える。夕方は冷えるかもしれないとシャツの上に羽織る黒いセーターを持つ。ダイニングテーブルに病院に行ってくるとメモを残して、アパートを出た。

駅に向かう橋を渡ると、すっと差し込む香りがあった。土手の下を見ると水仙が咲いていて、ああ、と思う。あのとき、叔父が嗅いでいたのは何だったんだろう。何度もよみがえっては沈殿した古い記憶のなかの疑問が、湧き上がってきた。

僕は、春が好きだった。ホトケノザが紅色に畑を染めると、空気が和らぎはじめ、凍てついて硬くしまった畑の土をあたたかな雨が耕していく。

その日は、母があぜ道のヨモギを摘んで草餅をつくってくれた。出来立てのあんこを添えて家族で食べたあと、父が残った一皿に気づいた。

「これは明さんにと思って」

母が言い訳する。

「余計なもんをあいつに食わすことないんだ」

父は新聞から顔も上げない。

「いけませんか」

「つくったもんを無駄にする方が悪い」

父の了解を得ると母はにこっと笑い、小さな膳に皿をのせ、「行っておいで」と僕に言った。

トントンと蔵の階段をのぼり、いつものようにふすまに手をかけようとすると、中から激しい息遣いが聞こえた。叔父の具合でも悪いのかもしれない。思わずふすまを開ける力が強くなり、戸がバンっと音を立てて開いた。

僕は、そこに、服の匂いを嗅いでいる男を見た。僕がきびすを返すと、男は立ち上がって、僕の腕をつかんだ。細い腕がちぎり飛びそうな力だった。

身体を引くと叔父が重心を失い、僕に覆いかぶさるようになった。荒い息遣いは、雄犬のような生臭い匂いがして、僕は力いっぱい叔父を突き放すと走って母屋に帰った。

驚く父と母に僕は「腕を掴まれた」と言ってわあわあと泣いた。母から服についた沁みを見せられた父は激高し、「畜生」と言って蔵に走っていき、叔父を引きずり出して何度も殴った。叔父はいっさい言い訳しなかった。


翌朝、叔父は自殺した。ひっそりと行った葬儀に僕は参列しなかった。叔父は、骨壺に入って帰ってきた。

いつまでも明かりの消えない母屋の台所をのぞくと、骨壺と差し向かいに酒を飲んでいる父がいた。父の背中を見て、僕が言わなければと、心が冷たくなった。叔父が灰になっても、僕の腕には叔父の握りしめた跡が残って、呪いのようにそこだけが、いつまでも熱く脈打っていた。僕はますます無口になった。


父が入院する郊外の病院に着いて受付を済まし、ナースステーションの看護師に会釈をして、病室に入る。六床あるベッドはすべて埋まっているが、カーテンがぴたりと閉められ、どんな人が寝ているのかはわからない。

僕は入口のパネルで父の名前とベッドの位置を確認し、そっとカーテンを開ける。

父のそばに座っていた母が「ああ」と言い、すぐに腰を浮かしてひとつしかないパイプ椅子を譲ろうとする。僕は手で母を制すると、中に入り、またカーテンをぴたりと閉める。父は口をぽかんと開けて眠っていた。

「様子はどうなの」

たずねると母は弱弱しく首をふる。

「ずっと寝たまんま。脳出血しているから、たまに起きて支離滅裂なことを言うの」

母は水差しやタオルをとると、「少しお願い」と言って洗い場へ行った。

僕はパイプ椅子に座り、父の顔をじっと見た。こんなに父の顔を観察したのは初めてかもしれない。こうしてみると父の鼻は叔父と同じだった。父と叔父が似ているなら、自分と叔父が似ていたのは当たり前だ。

僕は持ってきた本を読みながら、母を待つことにした。ふと気づき、顔を上げると父がじっと僕を見つめていた。何て声をかけたらいいかわからず見つめあう。

父のかさかさの唇が動きだしたが、声がかすれて聞き取れない。耳を父の口に当てるようにする。

「なんでなんだろうな。なんだったんだろうなあ」

「何が何だろうなの」

僕がたずねるとしっかりした目をして、父が言う。

「明は、殴られて、ありがとうって言った」

そういうと父は、「なんでなんだろうな、なんだったんだろうなあ」と繰り返しながら、また眠りに落ちていった。

戻っていた母にそのことを聞くと「さあ」と母は首をひねる。

「それは初めて聞いたわ。ただ、明さんが死んだあと、部屋を整理していたら、父さんの服が出てきたの。どうして。いつの間にって思っていたけれど」

僕は父に別れの挨拶もせず、母の呼び止める声にも応えずに病室を出た。

いろんなことが今はよく見える。よく聞こえてくる。叔父の想いが伝わってくる。

家に着くと、由美はキッチンにいて夕飯の支度をしていた。息の弾んでいる僕を由美が不思議そうに見る。僕は由美の腕をつかむ。

「どうしたの」

由美は笑って身をよじるけど、僕は腕に力を込める。

「痛いわ」

由美は真顔になって、僕を見つめる。

僕はそのまま腕を引き、両腕で由美を抱きしめた。

由美は腕の中で力を抜いて吐息をもらす。

「熱い」

僕は、からだの底に沈殿していたものすべてを注ぎ込むように、キッチンで由美を抱き続けていた。



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