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東京を念入りに散歩する。※散歩リクエスト募集中
東京を誰よりも念入りに散歩しようと思う。
理由を話そう。ちょっと固い話だけれども。
「豚に歴史がありますか?」
「百姓の歴史を学びたい」と言った学生にそう問うたのは、むかし東大で助教授をしていた、平泉澄という歴史家だ。
平泉は大東亜戦争を擁護する歴史観・皇国史観の親玉的存在として知られている。
平泉にとって、歴史は国が消費するべき大きな物語だった。
昨今、ウクライナ情勢などの国際的な揺らぎから、「歴史学を学んでいれば過ちを繰り返すことはなく、人類はやがて理想的な世界にたどり着く」という考えが幻想に過ぎないことが露呈した。
歴史学のない社会は戦争で溢れていたが、歴史学のある社会もさして変わったものではない。
あなたの通う学校の日本史・世界史の教師たちは「あやまちを繰り返さないために歴史を学ぶのだ」というかもしれない。
そんな時は言い返してほしい。
「で、あやまちは無くなりましたか?」と。
我々には、「歴史学は人の役に立つのか」という疑問が、改めて突きつけられている。
歴史家の與那覇潤氏は言った。
「もはや日本人にとっての「歴史」は発泡酒やチューハイと同じで、健康に悪い成分(妥当でない歴史解釈)がいくら入っていようと、スカッとしたいから飲むものになってしまった」
(與那覇潤『歴史なき時代に』朝日新書、二〇二一)
だけど僕は、誰かがスカッとなるために消費した、プラスチックごみのような「歴史」に振り回されたくない。
そうやって語られた「歴史」は、ほんの一瞬だけ閃光弾のような強烈な光を放つが、気が付いたころには、跡形もなく消え失せている。
だから、何ものにも消費されない歴史を語ろうと思う。
題材は、できるだけ世間から注目されていないものの方がいい。
たとえば住宅街の中の小さな神社、こどもが走り回る公園。商店街のお肉屋さんなんてのも素敵かもしれない。
役に立つかなんてわからないが、それらを通して、人々が必死に生きてきた歴史を語ってみたい。
本記事は観光案内の体裁を取るが、観光資源として消費されてきた場所は避ける。
紹介するのは、なんてことない場所だ。
行きかう人が目もくれないであろう場所を、念入りに散歩する。
言い換えれば、「地方史としての東京史」を紡いでいく営みと言えるかもしれない。
ために、この東京案内を読んで、「行ってみたい」と思う人は少ないだろう。
これは「歩きたくならない東京案内」でもある。
最初の散歩は、阿佐ヶ谷あたりにしてみようと考えている。
(気分で違う場所にするかもしれないけれど)
準備が出来次第、散歩に出かける。
もしもリクエストがあれば、教えてほしい。
北山:1994年生まれ。ライター。「文春オンライン」、「幻冬舎plus」などに寄稿。文系院卒。ほかの編集部員からは「noteのわりに文体が硬い」と言われているが、自分の好みなので変える気がない。署名は(円)。