【周産期メンタルヘルス】ぴくつきでフラッシュバックする母親

周産期に関わっていると、精神症状を抱えている妊産婦がそれなりにいるということに気がつく。これは一新生児科医が心穏やかに子育てに向きあえるように妊産婦の精神症状と向き合うニッチな物語である。

 その方と初めて話をしたのはお産から4日目でちょうど退院する当日であった。退院の際の面談で向かい合い、話を始めようとするや、ボロボロと涙を流し出して泣いていた。晴れて退院となり、家族の待つ自宅へ帰ろうとしているのに、悲しくて泣いているのである。
 事の発端はこうである。順調な妊娠と出産を経て、元気な赤ちゃんが生まれて、その母親もとても喜んでいた。ところが、赤ん坊が時折ピクッと動くのを見た瞬間に急に涙が溢れてきてしまったのだ。若い小児科医が丁寧に「睡眠時ミオクローヌス」というもので、けいれんではなく寝ている間の筋肉の自動的な収縮であることを説明してくれた。要は授業中にいねむりしていると突然ガタッとなるアレである。身に覚えのある人も多いと思う。赤ん坊は寝ている間の大脳から出る筋肉の動きを抑制する指令が未熟なため、健康な赤ん坊でも普通に起こるものである。説明を受けた母親は頭では理解できた様子であったが、ピクッとする動きを見る度に、どうしても涙が出てきてしまうのであった。

 その方は上にお子さんが「いた」ことを語ってくれた。お産の1年ほど前、1歳の誕生日の前日に自宅でけいれんを起こし、自分の腕の中でみるみるうちに顔色が青白くなり、心肺停止で病院に運ばれたのだという。頭に出血があったため虐待も当然疑われ、頭が混乱する中、悲しむ暇もなく様々な方面からの事情聴取も受けた。結局心拍は再開したものの数日でその子は天に召されていったという。

 これは精神科医でなくても簡単に診断できる、典型的な心的外傷後ストレス反応(PTSD)によるフラッシュバックである。この目の前で涙を流し続ける女性を何とかしなければならないと私は考えた。これまで行ったことのない初めての治療だが、自分以外に何とかできる人間がいないという状況が私を突き動かした。私は数日前に知ったばかりのブレインスポッティング(BSP)という方法を試みた。眼球運動による脱感作と再処理(EMDR)という手法から派生した、迅速かつ強力に心の傷を癒やしていくトラウマ治療の手法である。その方の治療を始めると、「えっ、なんで…」という戸惑いの言葉が漏れたが、そのまま身を任せるよう促し、治療を続けた。5分か10分ほどした頃だろうか、ひとしきり涙を流し終わると、「今は上の子が見守ってくれている気がしています。私だけそう思っているのかもしれませんが…」と語った。上の子を亡くした後の気持ちを自分の中に閉じ込め、家族にも話すこともなかったらしい。そのため喪の作業が止まっていたようだ。心の中で止まった時計が急速に動き出し、悲しみを乗り越え、自然とわき上がってきた前向きな言葉だと思った。

1週間後、産後の健診に来たときには「家に帰ってからはそういう子なんだねと夫と話をして、実はたいしたことじゃなかったんじゃないかと思えるようになりました」と語っていた。1か月健診でも「上の子のことは思い出すと悲しいし、泣けてしまうし、この子を上の子の名前で呼んでしまうことがあって、ごめんねと思うことがあります。かわいいし家では笑えています」と語った。

 これが私が最初に精神療法を行ったケースである。もしもこの方がそのまま退院していたらどうなっていただろうか。おそらく自宅で涙を溢れさせながらの子育てが待っていただろう。24時間常に上の子のトラウマに曝露され続けてしまうのである。想像してみてほしい、四六時中、心の傷をえぐられ続けるのである。とても子育てが出来る状況とは思えない。それを時間と共に乗り越える心の強さを持っていた人なのかもしれないが、PTSDによる2次性のうつ病を起こし精神科での治療になったかもしれない。場合によっては入院、母子分離されたかもしれない。母子分離は簡単だが、こどもにとっての一日は大人の一日とは比べものにならないほど濃密な時間である。母とこどものつながりをつくるとても大事な時期なのである。親に見つめてもらえなかったこどもの心に傷は計り知れない。数年後、十数年後にその心の傷がこどもの人生に影を差し、不安やうつ、精神症状につながっていくのである。母親の心の安定は、健全な子育ての必要条件ではないが十分条件なのである。母親が落ち着いてこどもと向き合えるのであればそれにこしたことがないのは当然のことである。そのためにはこのようなトラウマの治療をタイムリーに行うことが必要であり、周産期の精神症状は急性疾患と思って対応している。しかし、残念ながらそこに興味を持って治療してくれる精神科医は少ないのが現状である。私はそんな周産期のスキマで苦しい思いをしている母親が少しでも楽に育児が出来るよう、産前産後の精神症状を抱える母親の精神療法に手を出すことにしたのである。それが母親だけではなく、こども、そして家族の明るい未来につながっていく手助けになると信じて。


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