映画『来る』の柴田理恵さんから学ぶ”好感度コントロール”について

(この記事では2018年の映画『来る』についての話をしています。ネタバレがありますので未視聴の方はご注意ください)

 澤村伊智原作、中島哲也監督による2018年のホラー映画『来る』がAmazon Primeで2020年8月5日から公開されています。

 『来る』は興行成績的には必ずしも成功とは言えない映画のはずですが、なぜか私のTwitterタイムラインで異常なほどの人気を博していました。理由をまとめると以下の3点になります。

①ホラー映画だと思って観ていると、後半で超豪華な除霊フェスが始まってテンションがブチ上がる

②松たか子さんが演じる最強霊能力者・比嘉琴子がカッコ良すぎる

③史上最高の柴田理恵さん=逢坂セツ子を見ることができる

 特に私のタイムラインで盛り上がっていたのは③であり、配信前、DVD等でしか視聴できない時点ですら定期的に新規視聴者さんの実況ツイートで「柴田理恵!」「し…柴田理恵!!!」「柴田理恵ーーーーーッ!!!!!」と、役者さんの名前をただ叫ぶだけのツイートを散見することになりました。

 このたび、めでたくAmazon Primeで配信されることになり、私はようやく『来る』を鑑賞することができました。前評判通り大変エキサイティングな作品で非常に楽ませていただいたのですが、終わってみれば最も好感度の高いキャラクターが柴田理恵さんという異常な体験をすることになりました。主要キャラクターである妻夫木聡さん、黒木華さん、岡田准一さん、小松菜奈さん、松たか子さんを差し置いてです。

 いや、そんなことある???ない。

 でもあった。なんで???

 Twitterでは「柴田理恵さんの圧倒的な演技力がすごい」「キャラクターの格が高い」という点が注目され強調されていました。それにまったく異論はないのですが、私はこの記事を書く時点ですでに『来る』を8回鑑賞していますので、この映画におけるキャラクターの好感度コントロールに関して改めて考えをまとめてみました。

 まず、映画全体の時間は2時間14分(134分)。柴田理恵さん扮する霊能者・逢坂の出演時間は初登場(48分26秒)時点から絶命(2時間10分8秒)までのトータルで7分25秒。総上映時間の5%に過ぎません。

 次に、登場シーンとその内容、登場時間について箇条書きにします。さらに、ここでは初登場シーンを好感度プラスマイナスゼロの”基準点”と考え、各シーンごとにプラス(+)とマイナス(-)を記します。

①心霊番組の出演映像(知名度・俗物の演出/9秒/基準点)
②怪異と対決し、敗北する(”本物”感の演出/2分58秒/+
③児童公園からマンションを見上げる(折れない心/14秒/+
④妻夫木聡さんの魂の救済(確かな実力と思いやり/1分29秒/+
⑤除霊フェスについての説明(琴子と旧知である演出/21秒/+
⑥琴子に怪異の襲来を告げる(ゴング/6秒/変化なし)
⑦正装してフェスに参加(実力者/29秒/+
⑧会場の崩壊を意に介さず(高位実力者/16秒/+
⑨同上(高位実力者/2秒/+
⑩「信じられるのは痛みだけ」と語る回想(実力者・人格者/42秒/+
⑩完全崩壊した会場、ほとんどの霊能者が倒れていく中、力強い足取りでマンションに向かって真言を唱え続ける(高位実力者/16秒/+
⑪背負った入れ墨をズタズタにされて絶命している(最期まで戦った/10秒/+

 以上となります。なんと恐ろしいことに、柴田理恵さん=逢坂セツ子の登場シーンはそのすべてが好感度プラス!!!しかも霊能者としての”格”についても全編通して上がりこそすれ下がることはなく(①~②の間でも上がっている)、作中人物最強である比嘉琴子(松たか子さん)に次ぐ最高クラスの実力者、かつ、すべての行動が利他的(私利私欲や弱さがない)であるという描写がブレることは無かったのです。

 これは比嘉琴子が「最強の霊能者(+)かつ妹想い(+)ではあるが冷酷な部分もある(-)」というキャラ付けをされていることに比べても、好感度レースにおいては破格の待遇ということができます。また、この映画は全体的に登場人物の好感度をかなり低めにコントロールしており(最後まで生き残る主役級メンバーですら私利私欲や弱さ、執着、利己的行動から逃れられない)、相対的な意味でも柴田理恵さん=逢坂セツ子が大人気になるのも無理はない、それどころか当然であるという構成になっています。

 ではもう少し掘り下げるために、主役級のキャラクターに与えられたマイナス面の性格および性質(この映画ではこちらが反転後のメイン人格)についても列挙してみましょう。

①田原秀樹=妻夫木聡さん/外面だけを気にしており、自己のイメージ戦略のために妻子に負担を強いることを是とする利己的な性格。自分の落ち度に対する自覚と責任感がきわめて薄い。

②田原香奈=黒木華さん/生来の臆病さ、かつ母親との確執により自己肯定感が極端に低い。無害を装うし実際無害だが、処世術として弱者の立場から要求を通そうとする卑怯な面がある。

③野崎和浩=岡田准一さん/自分を含めた誰も愛せず、誰も信じることができない弱さを持ち、そのために元妻に堕胎させる自己中心的な部分がある。また、自分の納得のためにクライマックスで事態を悪化・矮小化させた。

④比嘉真琴=小松菜奈さん/姉に比肩する力を求めた結果、出産する能力を失うが、それを受け入れることが出来ていない。田原夫妻を本心では軽蔑しており、田原知紗を我が物にしようとする(怪異に操られた結果の言動なので必ずしも本人の落ち度ではない)。また、怪異を祓うことよりも田原知紗の生存を優先する視野狭窄的な行動を取る(これは必ずしも非人間的な行動ではないが、全体よりも個人を優先しているため鑑賞者の立場によって評価が分かれる)。

⑤比嘉琴子=松たか子さん/目的のためなら手段を選ばない冷酷さを持つ。行動自体は公共の利益に叶っているものの、今回の動機自体が妹の救命であり、そのために田原知紗を含めた多くの命を犠牲にすることも厭わない。また、最終的には野田秀樹、比嘉琴子の意志=理に反する行動を尊重する。霊能力者側のキャラクターだが、意思決定の判断については一般人側との中間にある

 さて、この作品には前半で露悪的に描かれた人間社会の”嫌な部分”=”一般人側”と、私心なく強大な怪異と命懸けで対峙する”霊能者側”というふたつのキャラクター群が存在します。

 主役級のキャラクター①~④が一般人側、⑤(比嘉琴子)がその中間、そして我らが逢坂セツ子は霊能者側を代表するキャラクターということになります。

 ドロドロとした私心に塗れた(描き方をされた)一般人側と違い、霊能者側は命懸けの戦いに冷静に、かつプロフェッショナルに立ち向かう、公共に利する存在としての描写が徹底しています。それを象徴する代表的なシーンはふたつ。

 ひとつは沖縄から招聘されたユタの女性(間違いなく高位実力者)4人がフェス会場にたどり着くことすらできずに抹殺されたにも関わらず、それを新幹線内で察知した神職の男性4人が「(怪異が想定以上に)やばい」ことを理解した瞬間に「別れて向かえばひとりくらいは到着できるはず」と考え、一切取り乱さず即座に目的達成のための最適行動を選択したシーン。もうひとつは、1年前に片腕を失った=敵の強大さを理解しているはずの逢坂セツ子が、取りも直さず児童公園からマンションを見つめ、戦いへの決意を示すシーンです。

 前提条件として、霊能者側には怪異の討伐が成功した場合の成功報酬(もしくは前金・死傷の補償として)の金銭が発生している可能性はあります。ですが、それを差し引いたとしても彼らの行動は気高く、鑑賞者は彼らに敬意を抱きこそすれ悪感情を抱くことはないでしょう。そしてそれは、物語の最終盤、ほとんどの霊能者たちが討ち死にしながらも怪異との対決をやめなかった結果を示すことで貫徹されます。

 さて、原作版(『ぼぎわんが、来る』)には映画版の目玉である除霊フェスが存在しません(比嘉琴子と野崎和浩のコンビだけで最終戦を戦います)。さらに、逢坂セツ子は初登場シーンでそのまま殺害される、怪異の噛ませ犬に過ぎません。ではなぜ、映画版の逢坂セツ子は、その出番も格も圧倒的に増量されたのでしょうか。

 初めての映画版鑑賞を終え、原作を読み終えた私には腑に落ちませんでしたが、これらの描写を洗い出したいまなら分かります。本来なら霊能者の代表を務めてもおかしくない比嘉琴子の動機・役割が一般人と霊能者の中間にあるからです。そのため、本当の意味で霊能者側を代表するキャラクターを配置する必要に迫られ、逢坂セツ子は改変を受けたと思われます。

 つまり、除霊フェスのアイディアが先に存在し、それに合わせた霊能者全体のキャラクター原型として”映画版”逢坂セツ子を設定したということです。

 この結論により、逢坂セツ子の好感度が終始上昇し続けた理由も分かります。この映画における霊能者たちが、人間の善性、および困難に立ち向かう強い心、団結心の象徴だからです。これはアメリカンコミックス原作の映画などでも描かれる”ヒーロー”の条件そのものですその化身である逢坂セツ子がスーパーヒーローであるのは必然です。さらに、逢坂セツ子には田原秀樹の魂救済シーンで母性まで付与されました。作中で完全無欠の人格と高い実力を併せ持つキャラクターが人気を博したのも、また当然と言えるでしょう。

 これら構成上のアドバンテージに加え、柴田理恵さんの圧倒的な演技力がもたらす説得力により、逢坂セツ子は日本映画史に残る名キャラクターになりました。キャラクター設定における好感度コントロールの優良サンプルとして、参考にする価値が十分にあります。

 以上、映画『来る』における逢坂セツ子から見る、好感度コントロールについての考察でした。

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