
日本語教員試験2024体験記(「学校英語は日本語の時間」編)
この記事は、「日本語教員試験体験記」の第24回です。
前回までの記事は、noteのマガジンにまとめていますので、合わせてお楽しみ下さい。
学校英語は、「国語ではなく日本語」の時間である
「日本語教員試験2024体験記」マガジンで、第21回の記事で、日本の中学生や高校生が学校で学ぶ「英語科目」における「日本語」の問題について書きました。
英語学習における「形容詞」と日本語の国文法分野の学習における「形容詞」の定義の違いにより、学習者がいかに混乱してしまうかの一端を例示しました。
ところで日本語は世界で最も難しい言語であるという評価があるらしく、Youtubeを見ていても、日本語の難しさをモチーフにした動画をたくさんみかけます。日本語を母語話者とする日本人も、日本語は難しいと思って生きている人が多いでしょう。私もその一人ですが、では何がどう難しいのかということを言われると、言語化して説明するのは難しいし、結局感覚でなんとかなるんじゃないか、というように、「国語なんて感覚だから、勉強しても無駄」論の立ち場に危うく立ってしまいそうになります。
「自動詞」と「他動詞」が難しい
私は日本語の母語話者として、「自動詞」と「他動詞」という言葉そのもの意識して、普段日本語を使っていません。しかし、話したり、書いたりするときに、あれ?いまの何かへんだな?と違和感を感じながら、「を」や「が」を直します。結局は、「自動詞」と「他動詞」の違いの本質を一応理解しているから、その修正ができるのですが、日本語のみで生きる場合は、「自動詞」と「他動詞」という文法用語が出てきません。
「自動詞」を受験テクニック的に定義すると、「を」がつかない動詞です。「学校へ行きます」の「行く」は、「を」をとりません。しかし、「アメリカを訪れます」の「訪れる」は、「を」がつく動詞で、これを「他動詞」といいます。
高校一年ときの英語の先生が「英文法」の授業を解説するときにこのように言いました。
「これは自動詞(Vi)ですね。だからダメ。これは他動詞(Vt)だからいいですね。だからこっちが正解。わかりましたか?」
高校生活始まって、最初の最初の授業。それも、「朝補習」です。ここでいきなり見たこともない概念を、知っていることを前提にしてバンバン放りこまれてきます。中学時代に塾に行って教えてもらって知っていた生徒も一定数いるでしょう。そして、高校とは別に進学塾でバリバリ予習をしている生徒も半数はいたので、教室の空気としては、「ああ、自動詞と他動詞ね」というのが多数派として教室の空気を支配します。私は辞書、参考書、単語帳などをめくりまくって、なんとなく「を」があるかないかということを理解していきました。
なるほど、そういうふうに定義されているから、正解はこっちなのか。でも、先生の解説って、単語帳の語彙を一通り完成してる前提じゃないと、聞いてもわかんなくないか?
この時、私の頭の中で、中学校の英語授業で悩んだところが思い出されました。
I go to school. 「go」は「行く」だから、「school」の前に「to(〜へ)」が必要です。
I visit America. 「visit」は「を訪れる」だから、「America」の前に「to(〜へ)」は要りません。
たしかにそうなんです。英語は、このように理解して覚えていきます。「go(行く)」は自動詞で、「visit(を訪れる)」は他動詞ですから、そう覚えるないんです。そう決まっているのですから。
日本の学校での英語教育を揶揄して、「そうなってるから、そう覚えなさい」理論があります。理屈は考えるな、受験には覚えるしかないんだ!というものです。また、先生に質問すると、「それは覚えなくていい」という答えが時々帰ってきます。私は、先生が「それを覚えなくていい」と言ったときは、「実は先生も知らない」説として学生に対して笑い話にしていますが、「そうなっている」ことについても、「それを覚えなくていい」という理由についても、論理的に説明されたことがありません。
中学校、高校と、「勘のいい生徒」は、帰納的に法則性を見出して、こうなっているのだろうと推測し、小さな確信を積み重ねながら学習していきます。これはとても大事なことです。最近では「教えない授業」というスタイルも世に出てきて、自分で学び、「気づく」ことを大切にしようという流れもあります。私も確かにそう思うのではありますが、初歩の初歩、スタートラインはもうちょっときっちり「導入」したほうがいいという立ち場です。
結論を急げば、日本語と英語の間の溝が深すぎるので、あまりに学習者任せにすると、溝にハマって先に進めない学習者があまりに多くなるから、最初の一歩を丁寧にやれないものか、と、日本語教師をしている今なお思うのです。
ここで、私が学生時代になんとかして理解しようとした図を示します。

学校の英文法では「1文型」という分類を使用して教えます。以下、S=主語、V=動詞、O(目的語)、C(補語)として使います。
I go to school. これは、第1文型 SV型と習いました。
I vist America. これは、第3文型 SVO型と習いました。
どちらも、「行く・訪れる」と同じようなものなのに、文型が違うという点で英語ってなんやねんというところなのですが、日本語においても「文型」はありますから、この段階では文句は言わないことにして、続けます。
日本語における「は」「へ」「を」は、助詞といいますが、その中でも述語との関係を示すものに「格助詞」があります。「が」や「を」は格助詞です。小学校のとき、主語は「は」「が」で始まると習って思いこんでいましたが、「は」「も」は国文法では係助詞、日本語教育では取り立て助詞であり、「格助詞」とは性質が異なるものです。

②を前提に、①を見返すと、英語における「自動詞」と「他動詞」は、日本語の「格助詞」がどこに埋め込まれているかということを分析すると、理解できると思います。これはあくまでも私流の理解の過程です。人によって、私はこう考えた、という体感的な理解の方法があるかもしれません。
学習者の足並みを揃えているようでまったく揃っていないのが中高の英語科目ですから、この辺の「日本語」で躓くと、お先真っ暗です。中学校の時点で躓くと、地獄の学生生活となることは確定でしょう。英語科目を諦められれば別の話ですが。
「英語を日本語」で考えるなという先生との戦い
かつて、日本人は中国大陸から来た漢文を、「レ点や返り点」などを駆使しながら読みこなしました。この読み方を開発したのが日本人なのか、中国側の人が教えやすいように開発したのかは知りません。原文を原文のまま読むのではなく、なんとかして日本語に読み替えてしまった技術には驚かされます。
英語を漢文の書き下し文にしようとすると、最初はいいのですが、受験という最終決戦においては、うまくいきません。四角いカッコは[名詞的要素]、まるカッコは(形容詞的要素)、三角のカッコは<副詞的要素>という風にやって、英文を分析する方法は塾や予備校ではスタンダードな授業でした。しかし、これに対しては、「大量の英文を読みこなす時には使えない」という立ち場から、批判も出てきます。受験生や学習者としては、どうしてもわからない時、ミクロに分析するときにこのような記号を使ってみることはありますが、基本的にはありのままに読んで理解していかなければ試験では制限時間内に終わりません。TOEIC試験などは書き込みも禁止ですから、そもそも書き込み分析はできませんね。
「英語を英語で理解する」ということは、確かに理想的で、憧れさえあるものです。しかし、日本語を母語とする学習者が、果たして英語で英語を理解すると言うことができるのでしょうか。できたとしても、ある程度の塊をつかんでざっくりと理解していくにとどまると思います。私としては、「どうせできねぇんだから、堂々と日本語を駆使して理解したらいいじゃん」派として、学校英語の勉強というものを考えてきました。
まとめ
結局どうしたらいいの?という問いへの明快な答え、結論はまだありません。しかし、日本語教師の目線から考えると、「学校英語は、日本語の時間である」という仮説は立っています。「学校英語は、国語の時間」かというと、「国語」すなわち「国文法」で導入される文法用語を英語のそのまま流用できないことは、「形容詞」問題で述べた通りです。「国語」ではなくて「日本語」としているのは、日本語を外国語の言語として対象化する日本語教育的な視点で考えた方が、英語と日本語を重ねて学びやすいから、より都合がいいのと考えからです。したがって、学校英語は「国語じゃなく日本語の問題」の時間である、という少しわかりにくいタイトルになりました。
引き続き、日本語教師の可能性を広げるということを目的にしながら、日本語教員試験を通して考えたことについて、noteを続けていきたいと思います。
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