見出し画像

中二病vs高二病という名の第二次大戦

このコラムでは、高二病とは何かについてと、それらが万能感と無力感の代理戦争であるということを説明します。

(読了時間:約3分半)

おさらい:中二病とは?

まずは、中二病のおさらいから。中二病とは「条件つきの万能感」で表わすことができます。万能感とは「何でも知っているし、何でもできる、何をしても許される」感じのことです。これは、無条件の自己肯定的感情の源であり、幼い子どもならば誰しもが持っている感覚でもあります。

ただ、子どもたちは成長と共に、なかなか思い通りにはならない現実に直面します。一方でまだ万能感を手放しきることもできません。その結果「○○なら何でもできる」と考え始めます。これが「条件付きの万能感」です。「○○」の中には理由、たとえば人や能力(才能)などが入ってきます。たとえば「○○さんに対してなら何をしてもいい」とか、「○○があればなんでもできる」と考えるようになります。

「みんなの持たない『○○』を持っているから、自分は何でもできるんだ!」という風に考えるのが中二病です。みんなと違うことを好むのは、ちょうど思春期に差し掛かると、自我(自分と他人の境界線)が発達するからです。

中二病は万能感、高二病は無力感から生まれる

高二病は、中二病のアンチテーゼです。平たく言えば「中二病嫌い」。いろいろな性質が、中二病の反対を取ります。

中二病が「条件付きの万能感」で説明できるならば、高二病はそれを真っ向から否定しようとします。すなわち「条件の有無に関わらない万能感自体の否定」です。

ただ、高二病は万能感を打ち消そうとするだけで、その先がありません。結果、社会に対してシニカルつまり冷笑的になったり、厭世家になったり、悲観主義に陥ります。あるいは、みんなと違う自分なんていない、みんなに合わせて従うしかないと考えるのです。

これらは、どれも無力感が形を変えたものです。無力感とは、万能感の反対の言葉で「何にも知らないし、何にもできない、何をしてはいけない」感じのことです。万能感が無条件の自己肯定的感情を生み出すのですから、それを失った状態である無力感は、自己否定的な感情を生み出します。

戦いのその先へ

万能感と無力感は、同じコインの表と裏に過ぎません。どちらかがなくなれば、もう片方もなくなる……。そんな相補的な存在です。よって、中二病と高二病も同じ。どちらも子どもが大人に成長しようとする一つの段階なのです。

万能感と無力感のジンテーゼ、つまりどちらも否定したものが「効力感」です。これは、「何でもはできないけど、何もできないこともない」「ここまではできる、ここからはできない」ということが、はっきり分かる状態のことです(よく「自己効力感」という形で用いられます)。たとえできないことがあったとしても、自分のできることに焦点を当てることで、自己肯定的感情を得ることができます。

「効力感」を持っていることが、中二病でも高二病でもない、大人の証なのです。

まとめ

中二病が「条件付きの万能感」で表現するならば、高二病は「条件に関わらず万能感を否定する」存在です。しかし、万能感を否定しただけでは発展性を持たないため、無力感に陥ります。

万能感と無力感は、相補的な存在です。それら双方を否定するのが「効力感」です。つまり「できることとできないことがハッキリ分かる」のが大人なのです。

おわりに

人間には、できないこと、知らないことがあってもいいのです。なぜなら、人は万能の神ではないからです。だからこそ、得意な人に任せたり、得意なことを率先して行い。協力し合うことができるのです。

ですから、成長の真っただ中にいる中二病患者たちを、称えるわけでも叩くわけでもなく、見守っていきましょう。高二病患者もですよ。

よろしければ、スキを押していただけましたら幸いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?