団平坂 (115の坂が語ること#1)
文京区には、115の名前がついた坂がある.
武蔵野台地の東の周辺部に広がるこの区には、本郷・白山・小石川・小日向・目白という5つの台地が広がり、台地と谷を結ぶ坂には、江戸時代につけられた名前が今も使われている。坂が語る歴史の一断面、馴染みの坂にまつわる思い出などを綴る。
『団平という米つきを商売とする人が住んでいたので,その名がついた。
何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に,薄幸の詩人 石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して,文京区内を移り変わって4か所目である。明治45年(1912)4月13日朝,26歳の若さで短い一生を終わった。』 坂の案内板(文京区教育委員会 平成5年3月)より抜粋
団平坂は、春日通り近くの竹早公園に沿って北東に向かって下っている。竹早の地名は、江戸時代、武器を管理した箪笥奉行に由来している。『箪』は略して草かんむりに早いと書いていたことから、これを分けて『竹早』という地名となった。
この場所には、1928年(昭和3年)に竹早国民学校が開校したが、1945年(昭和20)年の空襲で校舎を焼失し、翌年閉校。1954年(昭和29年)この跡地に、文京区で唯一のテニスコート2面を併設した竹早公園が設置された。
昭和29年に誰がテニスを楽しんでいたか?テニスブームとなった上皇上皇后さまの軽井沢のテニスコートの出会いよりも、東京オリンピックよりも前である。竹早公園の近くに戦前から跡見女子大、御茶ノ水女子大の女子大がある。ここの女学生が、テニスに興じている姿が目に浮かぶ。昭和30年頃に、四年制大学に通う女子は相当進歩的、あるいは美智子様のような上流家庭のご令嬢だったはずであり、可憐な花がコートを舞っていたのではなかろうか?
この坂の近くには、石川啄木終焉の地もある。
石川啄木の短歌は、どの句もほろ苦さや寂しさがつきまとうが、終焉の地の石碑に刻まれた最期の2首はあまりに寂しい。
『呼吸すれば、
胸の中にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!』
『眼閉づれど
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。』
1912年(明治4月13日に生涯をとじた。もうすぐ命日である。
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