ネット社会の「自分らしさの先取り」という弊害
前回の記事に引き続き、『優雅な留学が最高の復讐である』(島岡要)という本を読んでいて、「インターネットによる自分らしさの先取りの功罪」という話が大変興味深かったので紹介したいと思います。
ネット社会による情報過多の時代である今、欲しい情報は自ら探して求める(=検索する)という時代になっています。
そしてその検索の結果得られた情報で私たちは次の行動を選択するということも少なくありません。
さらに最近はAIや検索アルゴリズムの発達により、検索ワードや通販の購入履歴によって表示される情報がパーソナライズされるようになっています。
私は医師ですがウェブサイトを見ていると「医師転職エージェント」みたいな広告がたくさん出てきます。別に設定したわけでもないのに。
まあこれはもう10年くらい前からあったような気もしますが。
そのアルゴリズムの精度の向上は目を見張るものがありますが、最近驚いたのは、YouTubeで音楽を聞こうと思って曲名を検索しようとした時、最初の一文字入れただけで聞きたい曲名がサジェストで出るのです。
しかも、別に流行りの曲でもないし、いつもその曲名を検索しているわけでもないのに、です。
思い通りの検索サジェストがでて、なんて優秀な検索エンジンなんだ!と関心する一方、自分の好みを知られている!と自分の心の中を読まれているような気がして恐怖も感じます。
自分らしさの先取り
AIの発達により自分の好みの情報だけが表示され、不要な情報は排除されるることで、自分にとって「心地よい」環境が作られていく。
ネットを見ているだけで「あなたはこの情報がほしいんですよね?」と極めて高い精度で提案してくれるため、情報の海に溺れてしまうことなく、快適に情報収集ができます。
しかし、AIやアルゴリズムのほうが本人よりも「自分らしさ」を先行し、強化してしまうという現象が起きてしまうというリスクを著者は訴えています。
「あなたってこういう好みですよね?こういうの知りたいですよね?」と。
そうやって自分好みの情報だけしか与えられないために、世界観・視野が狭くなっていっていく。それも本人が気づかぬうちに。
これは「フィルターバブル」とも呼ばれ、問題となっています。私はこの言葉を今まで知りませんでした・・。
結果、行動の範囲も狭くなり、その人の今後の人生そのものにも大きな影響を及ぼします。
気をつけないとAIに人生を決められてしまう。そんな時代が到来しているように思います。
「未知との遭遇の機会」が奪われる
フィルターバブルの中で"守られている"私たちは、自分と関係ない情報を目にすることが減ります。見たくない、興味のない情報が目に入ってこないというのは快適である一方、未知との遭遇の機会が奪われてしまうことでもあります。
未知との遭遇によって人生が大きく好転することがよくあります。
セレンディピティ(計画的偶発性)と呼ばれるものはその代表的なものです。
「個人のキャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される」というスタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授の有名な言葉がありますが、人・物・言葉との偶然の出会いが人生を大きく左右することは非常に多いのです。
自分で検索して「新しい情報」を主体的に入手しているようで、サジェストされる検索ワードで先を越され、狭い情報だけに接するだけの化学反応が何も起きない味気ない人生になってしまうリスクがあるのです。
コンフォートゾーンを出てセレンディピティの確率を上げる
そんな状況から脱するためには、AIやアルゴリズムによって形作られた自分好みの環境(コンフォートゾーン)から出ることが重要。
具体的には、紙の本を読む、パーティーや飲み会に参加して人と話す、海外を旅する、留学する。そうすることで新しい人・物・言葉に出会うことができ、検索エンジンが決してサジェストしてこないような未知と遭遇する事ができます。
私はnoteを見るようになってから全く関係ない情報に出会い新たな発見をすることが増えました。当然noteにもアルゴリズムが背後で働いているのでしょうが、あえて少しハズしたテーマを"サジェスト"してくれて、新しい話題やテーマとの出会いを与えてくれている気がしています。
新しい検索ワードが人生を変える
コンフォートゾーンを出て未知と遭遇することで、私たちは検索エンジンに今までは入れなかった新しい検索ワードを入れるようになる。
そしてAIやアルゴリズムが予測していない検索結果が得られ、行動も変わる。
AIに先行されるのではなく、自分がAIに先行する、つまり主体的になるという本来あるべき状態を見失わないようにしたいものです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。