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好きなものや人を否定されるのが死ぬほど苦手だ

今回はシンプルに、「好きなものや人を否定されるのが死ぬほど苦手」という話だ。正直、本気で否定されたら死ぬまで忘れないほど。いや。それは言い過ぎかもしれないが。その否定体験自体のネガティヴさに加えて、その好きなものを見るたびに「否定された時の感情」が湧き上がってくるのもまた嫌である。無論、その相手が嫌いなわけではない、むしろ自分が好きな相手の方が傷つく。自分が好きだと好意を持っている、認めているからこそ否定されたのが嫌だったのかもしれない。

ここで冷静に客観視すれば、好きなものを否定したからといって、わたしが否定されたわけではないことはわかる。そんなことはわかっている。だけれどなぜかイヤなのだ。もしかすると直接「わたし」を否定された(「お前なんかクソだ、なんもできねえクズだ!」←笑)よりイヤかもしれない。それくらいイヤ。

なぜだろう、とおもう。考えられるのは。まず、わたし自身がけなされたり否定された場合。わたしは「他人から見えているわたし」と「わたしが認識しているわたし」にギャップがあることに自覚的でいる。だから相手が否定する「わたし」はきっとその人の価値観に基づいた違ったバイアスがかかっていることが分かるから否定されても平気なのだ。自分が自分の価値を認めていればいい、そう思っている。しかしながら、自分の好きなものや人に関しては別だ。わたしもあなたも、それを見る目線としては、第三者で、同等。ましてやわたしはあなたの要素のどこかが好きでこうして仲良くしている。なのに、否定する...?いや、わかっている、人というのは好みがあって見ている視点も違う。価値観も違う。「自分が認めた人」であれ、価値観に圧倒的な差異があることはわかっている。だけど否定しなくてもいいじゃん?「そうなんだ...こんなのが好きなんだね。」でいいじゃん?否定しなくてもいいじゃん?そこなんだよ。否定しないでほしかった。上の言い方で十分あなたがこれに興味ないことはわたしに伝わるから...!

そしてこの出来事は逆説的にまたもう一つのことを示している。その人は自分の好きなものを否定されてもダメージが少ないタイプであろうということだ。
(それか、その真逆で破茶滅茶にダメージを受けることを知っているからあえてやっている、か。そうであれば、かなりたちが悪くてイラつくが、可哀想な人ということでもう言わないようにすればいい話で済ませる。相手を否定して下げることで相対的に自分の価値が上がったような錯覚に陥りたいのだろう。悔しいが理解はできる。
もしくは、嫉妬。そういう面の自分を自分で否定しているからこそ拒否したくなる。本当はそういうのがすきだけど、周りの人間にそれを否定されてきたのかもしれない。まあ、これも理解はできる。)
好きなものを否定されてもダメージが少ない人間ってどういうことなんだろう?わたしの個人的な見方だが、きっと、彼らのような好きなものを否定されても自分と対象を分けて考えられる人間は、全てに対してそこまで依存心がないのだと思う。自分の気持ちが話せば分かってもらえる、と思って育ってきた人間に多いとみている。これはある意味で、自分の「すき」が弱いのではないか。自分が何かを生み出したことがない人なのではないか。自分が傷ついてどうしようとなくて感情の吐き出し口がここしかないようなものとして、それを、この世に表出させたことがない人なのではないか。はたまた、自分が堕ちているときにだれかの作品にぱっと出会い、まるで自分のことを書かれているようで一瞬で惹かれて、鑑賞していくうちにほんとうにめちゃくちゃ救われた、ということがないのではないか。だから作品を貶される悲しさが理解できないのではないか。わからない、いろんなパターンがあるから。もうこんなのわたしの妄想だよ。でも、これだけはわたしが生きてきた経験として確実に言いきれる。

自分の「すき」を認識していて、生み出す方も享受する方も楽しめる人生の方が確実に楽しい。


(そうでない人を否定しているわけではない)

そう。わたしは好きがわかる「山」を持っているから、きっと傷つく「谷」も持っているのだろうと。勝手にそういう解釈に落ち着いたわけであります。わたしは自分が幸せに生きます。それで一緒に幸せになってくれる人を選ぶ。そうするしかない。いや、そうしたいな。そうしてこう。今日もありがとう。




またね。



追記。久しぶりに見たらたくさんのスキが。ありがとう。


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