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一粒一粒つなげて直すのと、文章を書くのと。

赤紫色の小さな石がぐるりと連なった首飾りが、ぷつんと切れた。
一本の線状だったそれは瞬く間に無数の個々になって、小さな石の集まりは左の手をくぼめた所にちょうど収まった。

今まで肩寄せ合って過ごしてきた隣の石がどれだったかなんて、今や誰にも分からないし誰も気にかけやしない。
それがひどく寂しいことのように思えた。


一粒取って、糸に通す。
直す作業は、その繰り返し。

ふと、「これは文章を書くのに似ているかもしれない」と思った。

石たちはみんな少しずつ形が違う。一粒選んではつなげ、次を選んではつなげ。
ときどき人差し指と親指の先っちょで、連なった部分を挟んでするするとなぞってみる。ひとつの線になり始めた粒たちは、個々と集合体の間に位置している。

新しくできるであろう線は、壊れる前の線と同じようで同じでない。
その新しい線ができるだけ滑らかに存在できるように、私は次の一粒を選ぶ。


主語助詞形容詞助詞点形容動詞助詞動詞丸

文章も、そんな風につなげて作っていく。
時々読み返して、また言葉を選んではつなげての繰り返し。

常にそんな風に言葉と向き合えているわけではないのだけれど。日常生活はびゅんびゅんと過ぎていくことが多いから。


私がnoteを始めたのは、ちゃんと言葉を選んでつなげて作った文章を交流の媒体として使う経験をしたい(≠丁寧に書いたものを誰かに読んでもらいたい)と思ったからだった。

前半の「ちゃんと言葉をつなげて」は議論の余地アリだけど、後半はささやかではあれ行われていると思う。
私は言葉で発信して、時々スキやコメントをいただいたりする。または私がスキを送ったり、ものすごく稀にコメントを残したりする。
それは顔も知らない誰かとの、言葉だけでのコミュニケーション。
話すよりも聞く方が好きな私の、絵を描く時は言葉に代わり得る要素を排除するのが常となった私の、リハビリテーションみたいなものかもしれない。

言葉は端的で便利なようでいて、本当に大切なことは全然表せないこともある。
文章という形で明らかになった瞬間に、それまで漂っていた複雑な感覚が一本の線に整えられて、大切だったことはそこに含まれ得なくて、事の成り行きだけが無意味に残ったりすることがある。

「言葉にしないままの方がよかった」

そう思うことがたまにある。
それはとても寂しくて心細い感情。
なぜなら、言葉を使わないと人との交流はなかなか難しい。そして、人との交流ができないままいるにはこの世はだだっ広すぎる。


言葉を両手で包むように扱うnoterさんを何人か知っている。言葉を皿回しのように飛ばせるnoterさんを何人か知っている。
それがnoteの素敵なところ。



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