しんどい時に立ち上がらせてくれた地元の海と波の音
私は「横須賀」という海のある街の出身なので、海は身近な風景です。
荒崎海岸や観音崎の灯台など、観光地としても有名な場所が多くあります。
私が人の色々な思惑の渦中でたくさん後ろ暗い部分をみて、人を信じられなくなって立ち上がれなくなった時。自宅から往復10kmくらい歩いて、海を見に行きました。(実家は山の方なので意外と距離があります。笑)
その時の写真が、この記事のカバー写真です。
不思議なのですが、その頃は体も無理をしてきてボロボロで気力もない状態だったのに、あの日はなぜか「海を見に行きたい」と思い立って、朝からあの海岸まで歩きました。寄り道しながら2,3時間歩いた気がします。
それに、海外の近くには、中高生の頃からお世話になっている神社があり、お詣りをしたかったという理由もありました。迷いというより、救いが欲しかったのかもしれません。
11月だったので寒い気候ながら、その日は晴れて少し暖かい日でした。
突発的に歩き始めて、羽織なしでも歩くと汗ばんで。久々に外に出て歩いたので、初冬の澄んだ空気が新鮮だと感じたのを今でも覚えています。
少し外に出ないうちに、お店が変わっていたり、新たに工事をして建物を建てているようなところがあったりと、自分が見ていないところで確かに世界は刻一刻と動き続けている。同時に、後ろを向いて止まったままの自分の時間が浮き彫りになるような、寂しい気持ちもそこにはありました。
歩みを進めると、色んな人とすれ違う。
新たな人とのすれ違ったというだけの接点。人生で出会う良い人も悪い人も、その時その場所に私がいたから得た縁なのかもしれない、と。
自分が人生の選択をして生きているという思えば思うほど、色んなことに必然性があると思いたくなってしまうのだけれど、自分が選んだわけではない偶然性のあるモノコトもたくさんあっただろう、と憂いてみたり。
自分の存在ややっていることに意義や意味を求めたくなって、足掻いてモヤモヤ考えるのだけれど、一人称視点(主観)引いて三人称視点(客観)で見てみると、実は「そう思いたい自分」が見えてくる、そういった気づきもありました。自分の時が止まっている時ほど、時の流れとともに動く世界にポツンと身を置くと見えてくる景色だったのかもしれません。
そうこうあれこれ考えながら歩いて歩いて、神社に着きました。
お詣りすると思うと、緊張感が生まれて気持ちが引き締まります。
最初に拝殿の前に立ち、二礼二拍手一礼でお詣りをさせていただきました。
境内を巡ると木々が生い茂り涼やかで。お昼時だったので、ご近所のマダムたちが数人でお詣りにきていらして、少し賑やか。
おみくじを引きました、縋る気持ちもある中で。
おみくじを開くと、次のようなお言葉がありました。
「どんな不幸や災難が降りかかろうとも 人を恨まず 澄んだ心で正しい心でいるようつとめなさい」と。その時の自分に、すごくはまる言葉でした。
その時の私は、本当は「なんで誰かの後ろめたい行いの前に、自分が理不尽を被らなければならないのか」と受け入れ難い気持ちを抱えていましたから。
初めてこの神社に参拝させていただいた時は、受験を控えた15歳。
祖母は敬虔な日蓮宗の信者でしたが、私は対照的に信仰心もあまりなく生きていて。けれど、どうしても高校は受かりたい・受からなければならない状況もあって、お詣りをして絵馬を描きました。当時引いたおみくじにはたしか「自分のやってきたことを信じて 真っ直ぐ前に進め」とあり、背中を押していただいた記憶があります。
時に自分が辛い時だけ参拝にいく信仰もない身勝手な状態で行くと「信仰心は一日にしてならず 困った時だけ来るのはダメ」というようなことが書いてありまして…全部神様にはお見通しだなと深く反省をすることも(笑)
そんな自分の成長を見守ってきてくださった特別な神社でお詣りをしてお言葉もいただきました。
最後に撫牛さんの頭と目をなでなで。
脳はこれからより聡明な判断ができるように、と同時に脳 ≒ 心なので心の安寧と清き心をでいることを願って。目は真実を見る目を養うために。
そして、神社を後にして海岸に向かって歩きます。
歩いて10分ほどだと思うのですが、海岸の道に出ると一気に視界が広くなるんですよね。
海岸に出て海を見渡すと、少し前まで地元を離れていたこともあって、一気に懐かしさと安心が湧いてきました。
この海岸からは東京湾フェリーが見えたり、天気によっては遠くに対岸を臨むこともできます。
何時間もただただぼーっと砂浜に座って海を眺めていました。
釣りに来ているおじさんや、波打ち際で遊ぶ親子、カラスの群れに1匹だけ紛れているカモメを目の端でただ追うだけ。
波を眺めているうちに「なぜ、こんなことになってしまったんだろう」「私の何がいけなかったんだろう」という理由を探す思考から、ただ起きてしまった事実を受け止めることしかないことを心が理解理解した瞬間がありました。
失ったモノや被った人の悪意など過去に囚われ続けることよりも、今私を信じて寄り添って励まし続けていくれる友達たちや応援してくれる家族がいてくれることに感謝して、そういった人たちを大事にしていく、そういう覚悟ができた瞬間でした。
そして、失ってしまったものがあっても、その代わり、私は自分が正しいと信じるコトや信条を守れたと思うと、これで良かったのかもしれないと。
恐らく、失うことを恐れて「それ」にしがみついてしまっていたら、私は一生の後悔や罪悪感を背負っていただろうし、自分より弱い立場にある人たちを陥れることになっていたかもしれません。
悔しさ、寂しさ、恐ろしさ、色んな感情を波に流して。
私はこの日、前に進むことを心に決めました。
自分にとって大事な人たちとの時間や関係を大事にするために生きようと。
あの日から半年が経ちました。少しずつ前に進んで、人を信じる気持ちを取り戻しながら、恐怖をちょっとずつ過去においてこれました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?