1杯1400円「ひみつ堂」のかき氷
「私、今週3回も中野から自転車で食べに行ったんだ。すごい並ぶんだけど、めちゃくちゃおいしくて、何度食べても飽きないの!」
昔そう言って、谷中にある「ひみつ堂」というかき氷屋に通い詰めていることを告白した同僚がいた。
時は流れ私は転職し、その同僚とも縁が切れた。しかし同僚のその言葉は消えなかった。
人は、一度巡りあった人と二度と別れることはできない―。
大崎善生「パイロットフィッシュ」
そんな言葉を思い出す。記憶というものがある限り、人は一度出会って通り過ぎていった人とも、別れることなどはできないのだ。
そして夏が来るたびに「中野から谷中まで自転車を走らせて通いたくなるほどのかき氷がある」ことを私の心に思い出させるまでになった。
しかし2児の母となったワーキングマザーの私には、神奈川県から谷中のかき氷屋までわざわざ行く気力と好奇心と有給休暇が無かった。が、先日、野暮用に午前中に都心での用事があり、済んだ後はフリータイムという奇跡の時間が生まれた。
奇しくも、それは夏の曇り空の広がる中、セミが最後の鳴き声を振り絞っている暑い日であった。
よし、行こう。
向かったのは千駄木。
着いて驚いた。
緊急事態宣言中の金曜の朝。さすがにスムーズに入れるだろうと思った。しかし予想を外した…すんげー並んでる。(私は並ぶのが嫌いなのだ)
前の人が店員さんに「いつもこんなに混むんですか?」と私が聞こうと思ってたことを聞く。すると「今が1日で一番空いている時間です、午後になるとあちらの方まで行列ができます」と背伸びしながら遥か彼方の方を指さしているではないか。
こんな行列がひどくない時間でラッキーですよ、といわんばかりの口調だ。いや、それでもこんな蒸し暑い日に並ぶのはキツイ。
15分くらい待ち、やっと店内へ。
高校生たち(男性)が、一心不乱に氷をけずっている。なるほど、この値段の高さはこの汗水垂らしている高校生たちの人件費と考えると納得がいく。お客さんの絶え間がないので、作る方もずっと休みがない。
私はいちごみるくのかき氷を注文した。ネットの口コミ情報を見るとお店の看板メニューらしい。
奥の方から「○○くーん!まだイケそう?きつかったら交代してもらって」という声が。控室に交代要員がいるようだ。
注文が来るまでヒマなので、氷を削る様子を観察。みんな削る方の腕だけがやたらとたくましい。確かにこのアルバイトを1週間やるだけで力こぶできそうだ。ひ弱な我が子も高校生になったらこういうところでアルバイトをやるといいのだが、とふと思う。(我が子=現在7歳)
待つこと5分ほどでかき氷が私の前に到着した。うっほい。私のランチ弁当3回分の値段のかき氷!!
一口たべて「あーーーーー!とけた!もう無くなった!あと100回は連続で食べられる!!」と思った。口の中が冷たくなりすぎて食べにくい、といったかき氷によくある感覚が、ほとんど無い。
あっという間に山の半分ぐらい食べ終えた。そして残りの半分を見た。
ああ、まだこんなに食べられる。まだ全然飽きていない。
そして残りもあっという間に食べ終えた。
――おいしかった。こんな状況でも行列ができる店なのかという新鮮な驚き。ひたむきに氷を削る高校生のひたむきさ。自分では調達できない貴重な水を使った氷。こだわりのあるシロップ。(ちゃんと果物100%でつくられているらしい)
これらに心揺さぶられる体験をして1400円を払った。
私はかき氷に1400円を払ったわけではない。名店の1400円のかき氷を食べるという体験に1400円払ったのである。(わけがわからなくなってきた)
そして店内を出てふと思った。あの時の同僚は、今頃どこで何をしているのだろうか、と。彼女の存在は、今も、これからも「中野から谷中まで自転車でかき氷を食べに行く女性」として私の中で生き続けるだろう。