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何もない私を楽しむとき、幸せが循環する
自分の内側で積み上げてきたものが崩れていったとき、好きだったものが好きでなくなったとき、興味があったものが興味がなくなったとき、そんな連続で、私は、自分には何もない、それを見るのも怖い、変化も怖い、と感じていた。何もない自分にも恐怖、変化する自分にも恐怖。そんな恐怖見たくない、と目を反らし続け、苦しくなっていた。
それに向き合ったとき、「何もない」、生まれたときは何もなかったし、死ぬときも何もない状態で死ぬ、魂が抜けていく。元々、何もない。
積み上げてきたものは自分を守るためだった。
積み上げていたものが崩れていくとき、それは自分の思い込み・ブロックを外していくとき。身につけていた自己防衛の鎧を脱いで、ありのままの裸の私に戻っていくとき。変化もありのままの自分へ戻っていく過程。自分に戻る、思い出していくとき。
「何もない」、それはとても身軽で、気軽な状態。何か必要だった?何も必要なかった。今までずーっと本当は何も必要なかった。
そして気づいたことは、『人を喜ばせることが好き』。人見知りだけど、人が好き、人の人生を見るのが好き。旅が好きだったのも、いろんな人に出会い優しさや温かさを感じたり、常識を覆されることが面白かったから。看護師で好きだった瞬間は患者さんの人生を見るときや、笑顔が好きだったから。カメラが好きなのは、幸せな瞬間や笑顔を切り取れるから。フリースクールで好きな瞬間は子どもたちの変化や素直な表現、笑顔。料理が好きだったのも、人の笑顔が見られるから。オーガニックにこだわっていたのも、オーガニックが広がればたくさんの人が笑顔になると思ったから。
人を喜ばせることは、自分の喜びや幸せに繋がる、だから、好きだった。看護師もカメラも全ては手段。根本は人が好きってこと。その手段はいつだって変わっていい。何一つ執着しないで、変化を楽しんで。私でいることを楽しんで。ありのままの私に戻る過程を楽しんで。
どんな風に目の前の人を喜ばそうか、なんて考えなくても、喜ばす才能が私にはある。人の懐にスルっと入る才能が私にはある。私がありのままで生きる時、何も身につけずに生きる時、きっと喜びや幸せが循環するんだろう。
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