命を繋ぐ。生と死の間にある日常。
2021年、2人の近親者を亡くしました。
1人は、30年以上会った事もなかった父。
もう1人は、幼少期からずっと一緒に暮らしてくれた、大好きなお婆ちゃん。
こんな事を書くと、引いてしまう方がいたらごめんなさい。連絡が来た事に驚いたくらいで、父の死因を聞いた時には思わず笑ってしまったほど、私にはどんな感傷も興味も湧くはずがなく、その事で父の近しい方に軽蔑されても、やはり何とも思いません。
亡くなった事で知った衝撃の事実さえ、さして衝撃でも何でもないかと全てを無に帰せるほど
変に意味を持たせる方が気持ち悪かったりします。
母も語りたがらなかったので、父の情報はほぼゼロの中、いつか、会いに行くのかなぁ。会った事もなく、人生における「痛み」のパートを、惜しみなく与えてくれた人の老後を、少しでも良いものにするために
そこまで出来る日が、私にも来るのかなぁ。
ぼんやりそんな事を考えてもいたからこそ、バカバカしくて笑えてしまいました。
父に関する事が、2021年に起こった、最もバカバカしかった事。
それでも、繋がれた命を、私は生きています。
私が生きている事、そのものを疎ましく思う人がいたとしても
そんな事は蚊よりどうでも良いくらいに、それはもう、大いに生かして頂いています。
おばあちゃん。
言葉も愛情表現も特になく
急に娘が連れて来た孫に対して、アドバイスや教えや思い出を、あえて与えようとした訳でもなく
それでも、巣食っていた明白な孤独を、和らげていてくれた人。
笑いのツボも性格の相性もピッタリで
一緒にいる時間が誰より楽だった人。
認知症になってからは、その天然なボケっぷりが、可愛くて、可愛くて堪らず、ただそれだけでした。
おばあちゃんの過去。おばあちゃんの過ち。母にとっては、もしかすると期待外れだったかもしれない色んなものが、私にとっては何の意味もなく、心の底からどうでもよく、ただ可愛くて、ただ大切なだけ。
おばあちゃんが戦火を潜り抜けて、旦那さんを亡くしながらがむしゃらに子供を育てて
繋いでくれた命を、生きている今があります。
ありがとう、ありがとうと、泣きながら何度も伝えて
意識もないのに、うっすら笑って、うっすら泣いているおばあちゃんの顔を見ていた時間が
2021年、最も悔いなき一瞬でした。
切迫早産でお葬式にも行けなかったので
亡くなってしまった実感が、まだあまり、湧いていません。
それでも「幸せで在る」とコミットした命の輪郭だけ
手にとれるほど、ここにあります。
誰と生きたいか、決める事。
何をして生きたいか、決める事。
ただ、生きていくと決める事。
どこか、捨ててしまう事と同義だったりもします。
来年、やらない事、捨ててしまう事を、書いて丸めて、捨てました。スッキリ。
2022年。命を、一つ繋ぎます。
なんかもう、ありがとうしか、出てくるわけもないです。
今年も一年、本当にお世話になりました。
どうか、良いお年をお迎えください。
来年もまた、大いに生き抜く、美しい年でありますように。