1月16日〜31日
サボテンの歌を聞いたりすることはよくある。太陽を眺めるひまわりを可愛いと感じることもある。「同じ生き物」といってもあくまで植物と動物という境界は明確に引かれているからその前提で捉え直すような感じだった。
ぬいぐるみや捨てられない家具家電や物体、石を愛でる行為も明確に境界は引かれている。別の物体だと考えていたし、今もそう考えている。主観や物語が議題だから、理解したり共感するのは物語の共感や似たような経験をしたことがあるという話が中心になる。
いわゆる発酵に関するあれこれ。上に書いた境界があやふやなレベルでの「生き物」同士の関わり合いについてはうまく理解できていなかった。そのことについて語る人たちの言い方が、越境している気がしていた。その越境について否定も何もしないけど、私にとっては距離のあることで、理解をする、もしくは伝播しようとするまでは至らないだろうと考えていた。
時間をかけることや世話をすること手をかけること、まるで子どもや猫のように扱う感じ。理解の範囲をこえる対象を愛でる。期待する感じ。うまく理解できなかったのだ。そうこうしているうちに発酵はもうポピュラーな対象となってしまっていた。(発酵なんとかラテとか)
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福島県安達郡大玉村で藍染をした。
藍甕に手をつっこみ布(※1)の世話をしていると、何かこう生き物の体内に手をいれている気がしてきた。指の間を動く藍の柔らかさと温度に「意志」に近いものを感じたのだ。体の中を拝借しているような申し訳無さと感謝。だからこそ井戸水でのゆすぎや灰汁での工程(※2)は丁寧に行いたい気がしたし、それを簡略化しようとしたり効率を重視しようとする人がいるとどうしようもない寂しさや憤りを感じてしまった。私はどうやら藍甕を越境した生き物として捉えているようだった。それを大玉村のひろこさんに伝えたら、彼女は一呼吸を置いてこういった。「なんとまあ繊細だこと。でも素敵な感覚ね。」
私は明らかに越境した。生き物を捉える枠組みが音をたててその構造を変化させた。今なら納豆の味を理解できるかもしれない。日本酒のその日の機嫌がわかるかもしれない。味噌や漬物の良さや違いや深さを今まで以上に感じて語るかもしれない。
藍染を体験したというだけなのに生き物を捉え直さないといけなくなってしまった。
※1 アートプロジェクト、ファンタジア!ファンタジア!の企画「藝術耕作所」の中で、建築家の佐藤研吾さんとたもんじ交流農園さん、鐘ヶ淵に出来た新しいスペースkisobaの皆さんと、蜜蝋を使って布に絵を書いた。大玉村で染めてきてもらってもよかったんだけど、せっかくなら実際に染めてみたいということで大玉村に遠足した。
ちなみにたもんじ交流農園の近くにかつてあった「玉ノ井」と大玉村の「玉」には共通の歴史と言われがある。玉ノ井と大玉村の交流もこの遠足の目的だった。
※2 藍甕にまず布をゆっくりと浸す。甕のそこにあるスクモを巻き込まないように手で支える。布の折り目の隅々にまで藍がいきわたるよう布を世話する。その後、たっぷりの井戸水にひたしてゆすぐ。汚れを丁寧にとる他に、水によって酸化させる目的もある。藍は酸化によって色が定着する。酸化を促した布を、すぐにアルカリ性の藍甕にいれるのではなく、灰汁(強いアルカリ性)にひたして中和/アルカリ性に寄せる。そして改めて藍甕にひたして更に染めていく。この工程をゆっくり丁寧に7回以上繰り返す。