人は、皆、“微妙にすれ違っている”。でも、“歩み寄ることはできる”。
皆さん、こんばんは!えりです。
本日も、お越しくださり、ありがとうございます✨
私は、ここ最近、noteでの発信活動において、徐々に、“自分のスタイル”が明確になってきているのを、感じております。
というのも、投稿を進めていくうちに、「どれだけ“多くの人から、フォロー”をしていただけるか。“スキをいただけるか”。」といったこと。
活動をスタートさせた頃の“純粋な気持ちは、どこへやら”。
気づけば、“数字のことで、一喜一憂するような状態に”陥ってしまっていたのです。
つまりは、“多くの人から、注目されることへの執着心が強かった”わけですね。
そんなわけですから、ここ最近、記事への“反応が振るわないことに対しても、気落ち”しておりました。
そんな中、「私が、“自分を発信する”という活動を、“なぜ、始めようと思ったのか?”」
その原点に、立ち返ってみたとき、気づいたことがあるのです。
それは、「“自分の経験”や、“その過程で得た学び”や、“編み出した波乗り術”を、“皆さんにシェアすること”」。
そして、「“発信を通して、似た悩みを抱える方の力になりたい”。」
役に立ちたいなんて、おこがましいかもしれませんが、「“ひとつのロールモデルとして、提供できたら”。」
「これが、私の“発信活動の原点”だったんじゃないの?」
何も、「多くの人から、評価され、“人気者になることではなかったよね?”」
といった、根幹にある想いを思い出すことができました。
こうして、“初心に立ち返ることができた”のも、いつも、記事を読んでくださる“皆さんのおかげ”です。
今の私にとっての“一番の喜び”は、「“同じお顔をお見かけする機会”が、少しづつ“増えてきたこと”」。
「私は、“こういった方々の存在を、大切にしていきたい”のだな。」
そう、改めて実感している今日この頃です。
ではでは、本日も、早速、小話から、参りましょうか~!
しばし、お耳をお貸しくださいませ👂
日常生活を送る中で、「“自分の考え”や“気持ち”が、“相手に届いていないな”。もっと“汲み取ってほしい”。今は、“その言葉が欲しいんじゃないんだけどな”。」
といった“モヤモヤ感”。
「自分の“感情が、ちゃんとキャッチされずに、すり抜けていく”。」
そんな感覚。
“コミュニケーションが苦手な方”、特に、“自分について、発信することが苦手な方”には、この“すれ違い感”、ご理解いただけるのではないでしょうか?
実は、当の私も、現在、利用を続ける、“就労移行支援事業所の職員の方々とのコミュニケーション”において、この“モヤモヤ感”が発生してしまっているのです。
そして、それは、“通所困難に繋がる要因”のひとつにまで、時として、膨れ上がってしまいます。
例えば、“家庭”や、“個人的な問題”に関して。
私の場合は、“母親との関係”や、“恋愛”のこと、“情緒面”のこと、過去の“トラウマ”の数々 等々…。
もっと深い“自分の心の暗部”。“根っこに潜む闇の部分”。
このような悩みというのは、非常に、“個人的”で、“センシティブな問題”です。
それもあって、職員さんに、“話すべきかどうかの見極め”が、“非常に難しい”のです。
それに加え、“根底”には、「どうせ、話したところで、“分かってもらえるはずがない”。」という“諦め”。
そして、「“勇気を振り絞って”、話しても、“理解を得られなかったら?”きっと、更に、“傷が深くなるのでは?”」といった“不安”や“恐怖”。
このような感情から、結局、いつも、“流血しつづける傷口”に、“分かりのいい子を演じることで、蓋をしてしまっている”のです。
時間の経過とともに、“言いたいことは言えないまま”、“自己完結で終わってしまう”のです。
こうして、心の中で、職員さんへの“一方的な苛立ち”や、“不信感”が募っていきました。
そして、ある日、遂に、“私の心は決壊”しました。
“限界点まで、溜まりに溜まった負の感情たち”が、“一気に流れ出しました”。
そこで、私は、“コミュニケーションおいて、あるひとつの大切なこと”に気づいたのです。
それは、「“自分の頭や腹の中”は、相手に、“言葉にして伝えないと、伝わるものではない”。」ということ。
“読心術”でもない限り、「“他人の頭の中を覗いたり”、はたまた、“腹の中に潜り込む”。」なんてこと、大抵の人には、不可能ですよね。
これまでの私には、その“根幹となる部分が、抜け落ちていた”のです。
「そもそも、相手に、“自分のことを、ちゃんと伝えてる?”」ということですね。
このことから、“お互いに、疲れない関係構築”には、「この、“相手に伝えようとする努力”を、“怠ってはいけない”んだな。」という、当たり前だけど、とても大切な学びを得たのでした。
そして、更に、何よりも大切なことに、気づいたのです。
「一番近くで、救いの手を差し伸べてくださっている職員の方々の存在を、ずっと“無視し続けていた”のだ。」ということに。
職員さんは、私にとって、決して、“敵ではなく”、むしろ、「私の抱える問題を少しでも、軽くしようと頑張ってくださっている方。一緒に、“荷物を持とうとしてくださる”、かけがえのない存在」なのです。
仕事とはいえ、「傍で、私を“見守ってくださっている味方”。」
「“コーチ”とも言えましょうか?」
そんな存在なのだと思います。
私は、これまで、引き上げようと、“差し伸べられた手を、自ら払いのけてきた”のです。
「私は、なんと“傲慢”だったのでしょう。」
それに、気づいてからは、“無駄なプライド”は、“かなぐり捨て”、“捻くれるのもやめ”、“素直に、職員さんに頼る”よう、“意識を切り替える努力”をしていきました。
それからは、職員さんへの“不信感”や、“見捨てられ不安”が、少しずつ、消えていくのを感じております。
そして、今、何よりも嬉しく思うのが、「自分が、一歩一歩、“前に進んでいる”。」という実感を、得られていることです。
一歩の距離は、短くとも、着実に、見える景色は変わってきましたよ。
ですので、コミュニケーションにおける、“自己開示に抵抗感がある”方は、一度、「自分が、“人から、どう思われるか?”」といった“妄想を、振り払って”みましょう。
そして、少しずつでいいので、“プライドという名の鎧”を、一枚一枚、外してみましょう。
決して、忘れないでください。
あなたのすぐ隣で、あなたのことを助けようと、“歩み寄ってくれている存在”のことを。
その人のことを、“信じてあげて”ほしいのです。ほんの1mmずつで構わないから。
また、「自分の“心の窓を開ける角度は、自分で調整してもよい”のだ。」
ということも、ぜひ、心に留めておいてほしいのです。
いきなり、全てをさらけ出すというのは、とてつもなく勇気のいることですからね。
その辺りの“さじ加減”が上手くできると、“人間関係が楽になってくる”と思いますよ。
さて、本日の小話は、ここまで🌼
ここまで、お付き合いくださり、ありがとうございます😊
それでは、そろそろ、本日のメインテーマへと、移って参りましょう~!
「どんな人間関係においても、“完璧な関係は存在しない”。」
~霧のかかった“静けさの中に、人の温もりを感じさせてくれる”~静かでいて、“雄弁”な物語
GWの抜け間、平日の夕方、私は、とある劇場を訪れた。
そこは、市内では、“唯一のアート系映画館”として、古くから、知られている小さな劇場。
“映画好きが集う隠れ家”的な老舗。
いわゆる“ミニシアター”というやつだ。
街の外れ、コンクリート打ちっぱなしの無骨な顔をして、ひっそりと佇むビルの2階にあるその劇場には、独特の雰囲気が漂う。
席は指定なし。お馴染みの映画泥棒の出番もなし。
座席には、1枚ずつ、座布団が敷かれており、訪れる人も、皆、上映時間前には、ゆったりと着席し、途中離席することもなく、場内が明るくなるまで、じっくりと腰を据えている。
シネマサンシャインに代表されるような、“大手のシネコンでは、感じることのない独特な空気感”だ。
この日も、この劇場が持つ魅力に誘われるように、初老の男性スタッフから、手渡された映画券を片手に、スクリーンルームへと、足を踏み入れた。
いつものように、ゆっくりと腰を下ろしたのは、“最後列の真ん中の席”。
私の“特等席”だ。
スクリーンから、遠いから、より全体を見渡せ、音響の圧も受けにくい。
“そんな程よい距離感”が、私にとっては、とても心地良いのだ。
この日のお目当ては、『コットンテール』という作品を観ること。
この作品、「“家族”ד変化”דロードムービー”」という、私の大好きな要素が、3拍子揃ってしまいました。
「“祖母の死”や、“母との確執”など…。」個人的に、テーマと、重なる部分が多く、上映情報を目にした次の瞬間には、スケジュールを確認していた。
ちょうど、母との関係や、自分の向かう道について、悩みの沼に、再び、片足を突っ込もうかというタイミングだったこともあり…。
「これは、今、観なければ!今の自分にとって、必要なものだ。」
そう直感的に。何かに導かれるように、この小さなシアターに足を運んだのでした。
さて、この映画、どんなお話だったかというと、、、。
不器用で、人と上手く関わることができない初老の男性が、今回の物語の主人公。
この男性は、作家として、成功することを夢見、文芸誌への作品投稿など、執筆活動に情熱を注いではいるものの、日の目を浴びることはなく、英語教師の仕事で食いつないでいるようだ。
そんなある日、とある寿司屋で、後に、生涯を共にする妻となる女性と出会う。
男性は、その女性の柔らかく純粋でありながらも、意思のある真っすぐな瞳に、瞬く間に恋に落ちる。
その後、二人は、様々な障害を乗り越えながら、結ばれることに。
不器用で心を閉ざしがちな主人公に対し、優しく寛大な心で寄り添う妻。
二人の間にもうけた子も、巣立ち、新たな家庭を築こうとしている。
そんな、決して、裕福ではないけれど、ささやかな幸せに包まれた日々に、ある日、終わりが訪れる。
その終焉は、突然だった。
男性の愛する妻が、闘病生活の末、この世を去ったのだ。
埋めることのできない喪失感から、茫然自失の中、寺の住職から、一通の手紙を受け取る。
その手紙には、妻の遺言が記されてあった。
それは、「生前、愛した思い出の地、“イギリスのウィンダミア湖に、遺灰を撒いてほしい”。」というもの。
男性は、“最愛の妻の願いを叶えるため”、疎遠になっていた息子夫婦と、4歳の孫と共に、イギリスへと旅立つ。
しかし、男性と息子との間には、長年にわたる確執があり、二人は、事あるごとに、衝突を繰り返す。
そして、言い争いの挙句、遂に、この男性は、独りで、ロンドンから、目的の湖水地方を目指すことに。
しかし、異国の地に独り。
頼りは、1枚の地図くらい。
電車に乗るも、行き先を間違えてしまう。
更には、携帯の充電も切れ、息子との連絡もとれない事態に。
追い打ちをかけるように、大雨にまで見舞われ…。
というような有様で、男性は、妻の遺灰を胸に抱えたまま、何の当てもなく、ただ、延々と続く高原の中を、彷徨い続けるのでした。
そして、遂に、イギリスの雄大に広がる道の真ん中で、道標を失い、途方に暮れてしまいます。
さて、ここから、どうなるのか?
「息子たちとは、合流できるのか?」
「無事、妻(母)から託された最後の願いは、果たされるのか?」
「父息子、二人の間のわだかまりは解けるのか?」
と、ざっくりとあらすじをまとめると、概要は、このような感じです。
この物語、一見すると、よくある「“夫婦”や“親子”、“家族の間で起こるちょっとした行き違い”」。
「そこから生まれる“確執”や、“贖罪”や、“和解”」といった“普遍的なテーマ”を扱っており、特に、これといった奇を衒った設定や、展開があるわけではない。
旅の道中で、トラブルが発生したりと、多少の抑揚はあるものの、ストーリーに、大きな起伏はなく、淡々と静かに、進んでいく。
だが、私は、その“多くを語らない、整然としたシンプルさ”が、逆に、“人間関係の本質を突いている”ように感じられ、琴線に触れるものがあった。
私には、映画評などというものを、書けるほどの眼は、まだまだ備わっていないため、偉そうに言うことはできない。
しかし、この「“喪失から、再生”。」という“普遍的だが、日常生活の中で、つい忘れてしまいがちな大切なこと”を、“ひとつの家族の姿を通して、私たちに教えてくれた”この作品に、私は、心を強く打たれた。
このことだけは、確かに、言えることだ。
とても“静かでありながら、さざ波のように、押し寄せてくる情感”に、鑑賞後には、“清らかな温かい涙”が流れた。
こうして、この日は、“何か目に見えないものに包まれているような気持ち”で、劇場を後にした。
この体験から、皆さんに伝えたいことがあります。
「“コミュニケーション”は、“キャッチボールと同じ”なんだな。」ということ。
「お互いに、“投げる球に合わせていかないと、ラリーは、上手く続かない”。」
“どちらか一方だけが合わせるの”では、“疲れて、へとへとになってしまう”。
お互いに、気遣って、“相手が、取りやすい球を投げてあげることが、大切”なのです。
こうして、“相手との信頼関係”さえあれば、「自分が、“少し変な方向に、球を飛ばしたとしても”、“相手が、きっと、走って取ってくれる”はず。」という“安心感に、包まれている”のではないでしょうか?
勿論、「あなたが、“変化球を投げてきたときは、私も、ちゃんとキャッチする”よ!」
という前提ですけどね。
さてさて、本日のお話も、この辺りで、お開きにいたしましょう🍀
長らくのお付き合い、ありがとうございます👐
ここ最近、気温も、ぐっと上がり、“夏の気配”を感じてきましたね💦
「肌に当たる日差しが、じりじりと痛い。」そんな陽気ですが、、、🌄
体調等、崩されておられる方は、ございませんか?
小まめな“水分補給”は忘れずに。
日陰に入りながら、休み休み、ぼちぼちと、“マイペースで”いきましょう~🐾
それでは、また、次回、お会いしましょう~👋