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左様なら、切望、初めまして

ここ最近気になった事を挙げる。

・iPadの画面に亀裂が入った。(ショック強)
・iPhoneの画面保護がバキバキに割れた。
・Wi-Fiが壊れた。
・訳あってAdobeの使用期間終了。
・End end end と書かれた作品を見た。
・隣の人のTシャツにfinがプリントされている。


は……?終わった、、、
私の中で何かが終わりを告げている。
それは終わりの通知というにはあまりに些細であり、実感として大きく感じでいるという訳では決して無い。

けれども終わるならば潔く終わって欲しい。
なぜなら終わるということは始まるということだからだ。
それが周りの目に見えて分かるものとは限らない。恐らく私の中で小さく強く生じることなのだろう。

ものの大小に関わらず流れの中には節目、分岐点があり、私がその最中にいることはこの1年程感じていることである。
事実、世界全体がその渦中であることは誰もが承知のことであり、多くの人々が同様に分岐点を迎えるということはとても自然なことに思う。
異動、転職、引越しなど場を動くこと、結婚、出産、起業と始まることから、別れ、死と終結を迎えることが以前よりも周囲で騒がしく感じている。
その中で私は動きと言えばそう捉えることもできるが、どちらかというと停滞、まるでプールの底に体を沈めて水面を仰ぐような、周りの水だけがどんどん流れていくような、そんな感覚を抱いていた。

分かりやすく感じたのは人間関係である。
私は人付き合いが良い方ではないだろう。
けれどもその時々で近くなる人々、彼らに私は随分助けられてきた。
どうしようもないと思えた時も誰かがすくい上げてくれ、またある時は私も誰かに手を差し伸べることがあったかもしれない。
それはその場限りの、後から思えばすれ違うくらいの人々であったとしても意味をもっている。

ところが周りにいると思っていた人々がすうっと遠のいていく感覚があった。今振り返ると皆各々に自分を守るのに必死だっただけなのかもしれないし、実際そうだっただろう。
私は幼少期からの幼馴染みというような長く続いている人間関係がほとんどない。
いつも何だかどこにも属せないし、環境が変わる度にリセットされその度一人になる。なので一人ということに対し特定の感情をこれといって抱かない。
だがその時は、私は移動していないのにこんなにも動いていくことがあるのだなと思った。

信頼している友人からは繋ぎ止める努力をしないからだと言われたが、私は基本的に去るものを追わないし、去ることへの躊躇はない。
それはときに冷淡に捉えられるが、残るものは勝手に残り、離れても縁があればいずれどこかで再会すると頭では認識している。

けれど、だからこそというべきか私は時々どうしようもなく孤独になる。それは家族やパートナーの有無に関係なく陥る。根本の原因は他者との物理的距離の問題ではないからである。

孤独感は自己分離から生じる。
以前から外れやすかったように思うが、弱い部分にそれなりの強い衝撃を受け、簡単に魂が肉体から離れてしまった。
ジェットコースターの降下時に内臓が浮いたまま戻らないような、そしてそこへ代わりに鉛のようなものがずしりとはまり、外しても外してもはまってくる。
常に心臓が握られているようで始終痛みを感じた。小さな事を大きくしてどこまでもどこまでも落ちて行ける。

私は初めてこれは一人で解決できるものではないかもしれないと悟り、親友や人生の先輩のような方や珍しく家族にもヘルプを出した。少し専門的な手も借りた。しかし特に名前の付くような症状でもないらしく、かろうじて生活はしていたので客観的には平気なのだろう。他の分野からもみてもらったが腑に落ちず、結局のところは時間と新しく出会った人達などによりかなり薄れていった。
お陰で今年の年始くらいには平常というものを思い出しつつあった。

ひ弱い私の落ち込みなんぞ大したことない。
守護が強い。墓参りは行ったほうがいい。
と思った。

「終わり」を目にしたことは、これらの流れに一度終止符が付くとでも言いたげだ。
むしろ終わることを切望する。

相変わらず浮き沈みを繰り返しているものの、
いかに環境や周りに左右されず自分に戻ってくるか、以前に比べれば大分できるようになった、はずだ。

思考が現実をつくり出しているので周りは目安になるが基準にはならない。
他と比べて卑下することの情けなさよ。数字に騒ぎ立て本質を見失うことの愚かさよ。
大きな流れを鵜呑みにせず判断すること。

今というタイミングに周りにいてくれた人は皆奇跡に思う。
今ならヒールを買って出てくれた人も許すことができると思う。
ありがとう。
生きることを選択したい。

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