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わたしの描く理由2

可能性を与えること。
私が絵を描くことを中心にした生活を送るとは元々考えていなかった。
ある程度の年齢から、絵に携る仕事をしたいとぼんやりした輪郭で考えてはいたが、絵を生業にするなんて一握りの限られた人間だけだという大人たちによる洗脳が強かった。
それを真に受けた私が考えられる現実的で具体的な職種は美術教諭くらいだった。アーティストなんてまるで現実味のない雲を掴むような職種だ。
それに私は特に突出したところもなく、家庭にも恵まれた、ごく平均的平凡な人間だ。
だから私は皆がそうするように偏差値基準で進学し、教育の道へ進んだ。

卒業後は小学校臨任講師として2学年の担任を持たせてもらう。
子供たちは純粋無垢で眩しく愛おしい。
そんな子供たちに対し、あなたたちは将来何にでもなれると心から信じることができた。
だが、ふとその時、私自身は本当になりたいものになったのだろうかと強い疑問を持った。
自分が何もやり遂げていないのに眼前にいる子供たちへ伝えられる事なんてあるのだろうか。
それから私はすぐにでも「絵を描いていたかもしれない自分」を体現しなければならないと思った。
平凡に溢れた私が描くことで誰かの気持ちを後押しできるなら、それだけで私が描く理由はある。

原点の記憶へ遡る。
描いた絵が人の手に渡っていくことに対し割と自然な感覚として自分の中にある。
覚えているのは4,5歳の頃の事だ。ポケモンが流行った第一次世代、好きなポケモンカードを模写した。よく描けたので翌日幼稚園に持っていき友人に見せると「ほしい」と言われ渡した。周りの園児にも頼まれ次の日描いて持っていった。
それが、私の絵が人の手に渡る1番古い記憶。

思えば小学生の頃も休み時間の度に自由帳を開いて描いており、それを覗く友人に絵を渡したり、次第に絵を描く児童が増え、絵を交換したりした覚えがある。

何をしたって自由な環境下で、何を敢えて不器用になることがあるだろう。純粋な記憶の中に私たちの本質はあると思う。


潜在意識とつながる。
人は自覚のない意識部分の方が、自覚のある意識よりも遥かに広い。
元来、人には第六感が備わっている。直感的に危険を察知したり、何となくした選択が実は重要であったり、パワーの強いところに引き寄せられたりする。
それは思考が強くなるほど遠のき、感覚に頼るほど鮮明さを増す。

見えているものと見えないもの。
人は認知していないものの存在をどれくらい理解しているだろうか。
知覚できている世界だけが現実とは限らない。むしろ見えていない世界を含んだ世界を許容する方が辻褄が合う。
認知の域を超えた存在や超感覚の世界が共存していると考える。
近年は実体のないものや見えないものへ意識を向ける姿勢が一層高まっているように思う。
例えば、神や天使や龍、先祖の魂など我々をガイドする存在。それらは意識するだけで繋がることができると思っている。
描いている中で絵に表れる形はそういった存在に近いかもしれない。
また、潜在意識の中では過去も未来も関係なく行き来することが可能である。
想像主は私たち自身であり、本当は私たちは少し先の未来のことも知っているかもしれない。

もとは皆ひとつ。
我々は宇宙の一端でしかなく、現世を終えればまた宇宙へと還っていく。
他人と思っている人物も元を辿ると同じところから来ている。
私という個人は初めからどこにもなく、同時にどこにでも存在している。
私はあなたであり、あなたは私である。
私の描く人物にモデルはいない。
自身のフィルターを通しているので心情の自画像とも言えるが、誰でもない人物である。同時に誰にでもなり得る人物だと言える。
見る人によって誰かになったり、誰かを思い馳せたりする、人々に溶け込む人物になると幸いに思う。

描くということは描く行為自体にも完成された絵同等に意味があり、肉体を持つからこそ体現できることのひとつである。
肉体が生きている限り描き続けることができる。
自己対話によって表れる絵は私自身を救うためであり、また絵という窓を通してあなたに問いかける。私を救うことはどこかで繋がっているあなたを救えるかもしれない。



画像は最近描いているデジタルドローイングより「夏至」

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