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聞こえてはいけない音(通奏低音の話)

昨日に続いて、ミューザ川崎シンフォニーホールへ行ってきた。今夜は古楽研究・演奏の大家、トン・コープマン先生による公開セミナー「バロック音楽談義 Vol.2」。通訳は著名なチェンバロ奏者の大塚直哉さん。タイトルにVol.2とあるのは、2年前の来日公演時も同様の企画があったから。このときのテーマは前半が主に音律についての講義で、後半はバッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明先生との対談だった。

今回は、前半が通奏低音と、少しだけレトリック(音楽修辞学)の話。そして後半に若手演奏家を交えての公開マスタークラスというプログラム。ていうかすごいんですよ。その道の世界的権威が、音大生でもなんでもない一般市民にお話してくれる機会なんてそうそうないと思っていたのが、まさか2回目があるなんて!しかも前日のコンサートのチケットを持っている人は無料で参加できる。まあ行きますよね。

地味だけど欠かせない通奏低音

通奏低音(Basso Continuo)ってなにかというと、17~18世紀のバロック音楽に一般的な低音パートのこと。ソリストの演奏するメインの旋律とは独立した、伴奏的な役割を果たすパートで、主にオルガンやチェンバロのような鍵盤楽器で演奏される。チェロやコントラバス、リュートやハープといった大きい低音の出る楽器とも連動する。

チェンバロで通奏低音を弾くときに特徴的なのが、何をどう弾くかは譜面に書かれていないということです。つまり即興!楽譜には最低限の音符と、それに数字だけがついていて、そこで示された和音をヒントに、演奏者のセンスによって自由に再現するのですね。ここがまさに演奏家の腕の見せ所。

例えばこの動画で弾き振りしているコープマン先生のチェンバロのパートがまさに即興による通奏低音なんだけど、聴いて分かる通り…地味!管弦楽オーケストラにあって、撥弦楽器(アコースティックギターの一種)であるチェンバロの音ってものすごく小さくて、決して存在感のある音とは言えない。でも通奏低音パートがないと、この管弦楽組曲第一番に限らず、多くのバロック音楽は成立しないのだ。

この、目立たないけど欠かせない通奏低音の役割を、コープマン先生はソリストの「良き奴隷」でなければならないと語っていた。

「良き奴隷」

どういうことかというと、ここでのチェンバロは音量や存在感の点でメインよりも前に出てきてはいけない。チェンバロは高音がギンギンして目立つので、高い和音を足していけば目立つのだけどそうしない。フルート(フラウト・トラヴェルソ)のソロがあるとしたら、トラヴェルソの低音は音が小さいから、それにあわせて音量を下げないといけない…みたいなこと。

難しいのは、ピアノと違ってチェンバロは基本的に打鍵の強さによって音量(ベロシティ)が調節できない。なので、そういうときは通常4音(4声)で弾く和音の音の数を減らすとかする。どう披露するというよりも、いかに大きすぎず、うるさすぎないようにするかというのに心を砕くわけですね。

コープマン先生の師匠にあたるグスタフ・レオンハルトは、「通奏低音は、聞こえてしまったらその時点でもう"うるさい"」と仰ったそうな。曰く、「聞こえないが、ないと寂しいくらいがちょうど良い」。すごいよね。聞こえてはいけない音を演奏するのが真髄なんだって。

目立たなくていい

実を言うと、私はチェンバロで通奏低音を演奏する意味をあまりよく分かっていなかった。チェロのように体の芯に響く強い低音が出るわけじゃないから目立たないし、せっかくの即興も聞き取りにくい。J.S.バッハは、通奏低音楽器に過ぎなかったチェンバロという楽器に、ブランデンブルク協奏曲5番で長大なソロパートを与えることによって光をあて、更にはこの楽器をメインにしたチェンバロ協奏曲もたくさん書いた。それに比べて、通奏低音はあまりにも地味なのではないかと。

だけどそれは逆で、目立たなくて埋もれているからこそ、本来の役割を果たしているのだ。これを学べただけでも今夜はほんとに価値があった。なんか、もっと言うと人間でもこういうタイプの人は必要だと思うし、わたしはどちらかというとそういう人になりたい。

コープマン先生は、そのあとのマスタークラスでもきびきびと真面目に、しかし穏やかに通奏低音の演奏を指導されていた。ステージ上には立派なチェンバロ(鈴木雅明先生の私物の貴重な楽器と聞いた)があり、前日のオルガンに続いて今日はチェンバロ漬け。音楽的な難しい指導の内容はよくわからなかったけど、結果として演奏がどんどん良くなり、目の前で音楽が出来上がっていく様子は感動的だった。いい企画だったなあ。

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