楽譜とは
どの版の楽譜を使うかは非常に重要だ。例えばベートーヴェンの交響曲第7番なら、Breitkopf & Härtelsの出版番号4335のいわゆる旧版、Peter Hauschildによるurtext(自筆譜)版(Nr. 5237)、Henle Verlagから出ているものはBreitkopf & Härtelsのコピーだ。この他にも、Dover社、Edwin F. Kalmus & Co社、音楽之友社、全音など、さまざまなものがある。
どうして旧版は、自筆譜から大きく違っていたのか。作曲家本人が書いていないスラーが加えられていたりする。これは、リハーサルで使われた楽譜を原本として、そこから印刷楽譜を作ったからに他ならない。つまりリハーサル中の書き込みなどが、本来の楽譜と混同されてしまっているのだ。
しかしこれも考えようによっては、どちらが作曲家の意図をより正確に表しているのか、怪しくなる。ベートーヴェンはピアノに向かって作曲した。そしてその楽譜をもってオーケストラに向かい、リハーサルをした。当然ながら自分の意図していない音が聞こえてくれば、オーケストラに要求するだろう。それを自分でスコアに書き込み、奏者もパート譜に書き込んでもなんら不思議はない。むしろこちらのほうが完成版と言えるかもしれない。
新版は自筆譜や作曲過程のスケッチ、作曲家の意図がわかる手紙などの資料をもとに再現したものだ。作曲家が書き残した本来の楽譜にこだわることによって、作曲者の意思をより正確に読み取ることができる。クラシック音楽をやる上での正しい姿勢だ。これがいわゆる原典主義の流れだ。
作曲家が書き残した自筆譜版を手に入れられたなら、あとは楽譜に書かれていることを忠実に音にすることが大切だ。
例えば先にあげたベートーヴェンの交響曲第7番。その第2楽章の自筆譜版(Nr. 5237)では、1st Violinの1小節目の8分音符には、くさび形スタカートがついている。
一方、旧版(Nr. 4335)では、ここが点のスタカートになっている。
点のスタカートとくさび形スタカートをどう演奏し分けるのか。しかも点のスタカートにはスラーがついている。自筆譜版を編纂したPeter Hauschildの「解釈」を引用しておく:
つまり、
(1) 2小節目のスラースタカートは、当時まだ残っていた書き方の伝統にしたがっているだけ。
(2) スラーの中のスタカートは、実質的に大事な音という意味、つまりタイではなくスラーだという意味。
(3) ベートーヴェンのスタカートは、他の曲も含め全てくさび形。forteが長いくさびでpianoで短いくさびを使っているようだが、確実にそうだとは結論づけられない。
(4) ベートーヴェンが初演に使った、写譜屋が書いたパート譜へのベートーヴェン自身の書き込みが、この1小節目の点のスタカートをくさびに書き換えていることだ。この書き換えは、ベートーヴェン自身の日記から読み取れたらしい。
このように、自筆譜版とは言っても、それは考古学と同じで、より真実には近づいているが、まだ不明な点がいっぱいあるという具合だ。
「楽譜を忠実に音で再現する」とはどういうことか?
よく考えてみよう。楽譜とは、単なる記号の集まりだ。しかもそれらが表しているのは、音程、長さ、タイミング、強弱、そしてそれらの時間変化だけだ。これに加えての多少のヒントが、con brio(生き生きと)のような表現のみだ。
例えば上記の1st Violinの旋律。テヌート、スタカート、cresc. poco a pocoだけしか書かれていない。これだけ表現すればいいのか?当然ながらそれだけでは人の心に染み込む音楽にならないことは明白だ。
作曲家が考えたこと、心の中身、表現したいことを楽譜に書きたくても、これらの記号と記譜法しかないのだ。楽譜には、音楽として再現するのに必要な情報は、ほぼ何も書かれていないと言っても言い過ぎではない。
ブラームスをはじめ多くの作曲家は、発明された直後の録音技術を用いて、自作自演の録音を残している。芸術家として自分の意図を表現し、伝える手段としての楽譜に限界を感じていたからだ。
演奏はD-A変換作業
作曲して楽譜に書く作業は、心の中身を記号で表すアナログーデジタル変換だ。しかも90%以上の情報がここで欠落してしまう。写真にモザイクをかけたようなものだ。その楽譜を見て演奏する作業は、元の情報がよくわからない欠陥だらけのデジタルデータから、本来の写真、つまり人の心に響くアナログ情報の音に変換することなのだ。書かれていことを想像したり、様々な情報から推測したりして、自分なりの解釈、表現方法を決めていく。考古学と同じだ。真実に一歩でも近づく努力は永遠にできる。しかし永遠に真実はわからないかもしれない。
楽譜とは、演奏のヒントでしかない。「楽譜を忠実に音で再現する」なんていうのは、ハッタリみたいなもので、全く意味がない。
では、私たちは何を手がかりに、どう演奏すべきなのだろうか。
徒弟制度
楽譜に書かれていない細かいことをどうすればちゃんとした音楽になるのか。プロの世界ではこれが師匠から弟子へと、脈々と受け継がれている。その「系譜」は、モーツァルトやそれ以前のバッハの時代まで遡ることができる。
例えば、小澤征爾氏の師匠はHerbert Von Karajan。Karajanの師匠はFranz Schalk。Schalkの師匠はAnton Brucknerという具合にだ。
ウィーンの音楽家のインタビューを見たことがある。名前は忘れたが彼は、ベートーヴェンと直接、何度も話したような口調で、ベートーヴェンの癖や音符に込めた表現の意図を語っていた。
このように師匠から弟子へと受け継がれているものこそ、楽譜に書かれていない大切な部分なのだ。それがウィーンの音であり、ドイツの表現となって音にあらわれている。
もしプロの先生についてレッスンを受けているのなら、先生の師匠、その師匠のことを聞いてみたら良い。もしからしたらあなたはモーツァルトの直系の弟子かもしれないのだ!
そういった伝統に直接学ぶ機会がなければ、プロの演奏の真似事から始めたら良い。音楽に浸ることなく、録音を細かく分析的に聞くこと。一部をとって何度も何度も繰り返し聞いてみること。そうすれば、楽譜に書かれていない多くのことが表現されていることに気づくはずだ。弦楽器の弓使いもプロの演奏のビデオをよく見て、アップダウンをどう割り振っているのかを分析したら良い。
まずは真似事から始めること。レッスンでは先生の真似事から始めるであろう。それと同じだ。録音やビデオの真似から始めるのは非常に効果的だ。
ただ、真似だけで終わっていては猿真似でしかない。自分たちの音楽表現を創造することが音楽をやっている意味なのだから。
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