JOKER フォリ・ア・ドゥ(2024) ②深掘り考察
今回の記事ではJOKER続編の深掘り考察をしていこうと思う。私はずっとJOKERのアイコンでnoteを続けてきたくらいには思い入れがあるので、よければお付き合いいただきたい。繰り返しになるがラストまでがっつりネタバレするので、これから鑑賞しに行く方はこの先を読まないことをお勧めします。
前回出した総評はこちら(こっちもネタバレしています!)
ひとまずアーサーとJOKERの関係性を主軸に時系列に沿って整理していこうと思う。(一回だけ鑑賞した記憶を頼りに書いているので、間違いがあったら申し訳ないです)
まず映画冒頭のカートゥーンについては何も知らなかったので意表を突かれた。JOKERの肉体を乗っ取った影はどんどん一人歩きして名声を手にする。ようやく自分を取り戻したと思ったら袋叩きにされてしまうJOKER。血まみれになりながらも「ノック、ノック…」とジョークを続けようとするのだ。映画の趣旨を的確に表現している皮肉な内容である。
世間を騒がせた生放送殺人事件を経て、アーサーはすっかり有名人となっていた。裁判を控えて精神病院(ほぼ監獄)に収容されているのだが、そこでアーサーのことを知っているという女性リー(レディー・ガガ)に出会う。この時点でリーはJOKERが起こした事件を賞賛しながらも、アーサー本人を肯定してくれているように感じられる。アーサーもそう思ったのかすぐに心を開くようになる。リーとの華やかな歌唱シーンはほとんどアーサーの妄想だが、かといって前作のように全てが妄想というオチではなくリーという女性と関わりがあったことは事実だ。
優しい女性弁護士に導かれ、トラウマゆえの妄想性疾患を抱えた人間として裁判に臨むアーサー。殺人を犯したJOKERは別人格であり、アーサー自身は無罪という路線で闘おうとする。しかし過去に関わった人物たちの証言を聞いているうちにトラウマがフラッシュバックし、次第に精神が不安定になってしまう。アパートの隣の部屋に住んでいた女性の証言や、その中で語られる母親の言葉などを知り、激しく動揺するアーサー。ちょうどその頃にリーが自分にある嘘をついていることを知り、ついに”アーサー”でいることに耐えられなくなった彼は、裁判中に弁護士を解雇し自己弁護することを宣言する。
彼は再びJOKERの鎧で身を固め、理想とする虚像の中へと逃げ込んでしまうのであった。
ばっちりとピエロメイクを決め込み、例の真っ赤なスーツを着て裁判に臨むJOKER。雄弁に振る舞う彼の中にアーサーの面影はない。そんな流れを変えたのは小人症の元同僚ゲイリーであった。
目の前で同僚を殺害され、その狂気を目の当たりにしたゲイリーはひどいトラウマを患っていた。それでも意を決して再び対峙することを選択してくれたのだ。揶揄うような態度を取るJOKERに対し「どうしてこんなことをするんだ?アーサー」「職場で僕に優しくしてくれたのは君だけだ」「君らしくない」と涙ながらに訴える。彼の言葉は確実にアーサーの中の何かを変え、JOKERとしての立ち振る舞いに綻びが見え始める。ゲイリーの切実な想いはJOKERという鎧を突き破ってアーサーの心を射止めたのだと思う。結果的に母親も含めて6人の殺害を認めたアーサー。この瞬間にJOKERという別人格はいないことを断言したため、JOKERはこの世から消滅したことになる。
判決が言い渡される瞬間、裁判所が爆発し間一髪で逃げ出すアーサー。熱狂的な支持者がテロを起こしたのだろうか。真っ先にリーに会いに行き自分はもう自由の身だと伝えるが、肝心のリーの返事はつれない。彼女が求めていたJOKERはもういないのだ。奇しくもあの長い階段の途中でアーサーは最愛の女性に拒絶される。リーは別れを告げその場を去ってしまうのであった。
再び連れ戻されたアーサーは看守から一層ひどい暴力を受ける。皆が羨望したJOKERという虚像を失い、あれだけ激しく愛したリーも立ち去った今、死刑判決を待つだけとなったアーサー。ある日、面会人が来ていると看守に言われたアーサーは、移動する途中の廊下で同じく収容されていた青年にナイフで刺され絶命してしまうのであった。呆気なく衝撃的なラストだが、私がもっと印象に残ったのは殺害される直前だ。
青年がアーサーを呼びとめた際に「自分で作ったジョークを聞いて欲しい」とアーサーに告げる。承諾するアーサー。私はこのジョークを聞いていた時のアーサーの穏やかな表情がとても強く記憶に残っている。様々なしがらみから解放されたような、すっきりとした安らかな笑顔だった。かつて母親に見せていたような屈託のない笑顔。無理してJOKERにならなくてもいい、もうピエロじゃなくてもいい。長く辛かった彼の人生の中でやっと等身大でいられるようになったのかな、と個人的には感じた。
果たして最後の面会者とは一体誰だったのか。映画内では明かされない。もしかすると看守とナイフ男がグルで、アーサーを連れ出すための嘘だったのかもしれない。面会者なんていないという可能性も濃厚だ。私は単純にリーが戻って来てくれたのかなーと思っていたのだが、鑑賞後に読んでいたとあるサイトで「ゲイリーだったらいいな」という考察を読み、なんだか泣きそうになってしまった。そうかもしれない。そう思うことにする。
今作で何よりも際立っているのが、リーという女性と恋に落ちて、浮かれ、愛を歌うアーサーだ。前作では不運が不運を呼び、すごいスピードでどん底へと転がり落ちていった彼だが、今作ではところどころに”希望”が垣間見える。何より明るいシーンが多いし、最初から最後まで数々の美しい音楽に満ちている。たとえ半分以上がアーサーの妄想であっても、そしてリーの愛情がアーサーではなくJOKERに向いていたとしても…。アーサーの純真さや無知さ、そしてとにかく幸せそうな表情が中盤以降の展開をより辛辣なものにしている。しかしこれもアーサーには必要な経験だったのだと思う。リーが自分に求めているものと自分自身のギャップに少しずつ気づいていく過程で、アーサーはJOKERと決別することができたのだ。
面会に来たリーが歌うカーペンターズの”Close to you”が溜め息が出るほど素敵で、一緒に口ずさむアーサーがものすごく切なくて、あれは素晴らしいシーンだったと思う。サムネの口紅を使った演出も良かった。前作の公衆トイレでのダンス(ホアキンのアドリブらしいですね)や階段ダンスに象徴されるように、アーサーと音楽は切っても切り離せない関係にある。幼少期から虐待を受け、常に抑圧されてきたアーサーにとって音楽は自分を解放する手段の一つだったのかもしれない。
アーサーが妄想に走る背景には幼少期のトラウマ、貧困、いじめなどの様々な理由がある。彼の人生は最初から与えられたものが少なく、それでいてさらに搾取され続けた結果、無意識にたどり着いたのがJOKERだ。ここに逃げなければおそらくアーサーは生きていくことができなかった。だから個人的にJOKERはアーサーの延長線上にいて、ちゃんとした彼の一部だと思う。でもまさに冒頭のアニメのように、いつしかJOKERという人物が一人歩きを始め、想像以上に世間から注目を浴び、やがてアーサー本人をも凌駕してしまったのではないか。そのことをアーサー自身が認めたとき、JOKERはその役目を終えていなくなった。もうジョークでごまかす必要はないから、と私は解釈した。
製作陣の意図としては、まず一つにはもちろんアーサー・フレックという人間をどこに導くかというのがあっただろう。つまりこのままJOKERとして自分に向き合わないまま生かすのか、それとも虚構に気づかせるのか。結果的に後者を選んだ訳だが、そのことが観客に対しての大きな問題提起となっている。前回の記事にも書いたが、映画を観ている私たちも結局はJOKERを欲していたのではないかということだ。まさにリーと同じように、熱狂的なゴッサムシティーの市民たちのように。
私たちはアーサーという人物に共感していたようで、実はJOKERが繰り広げるショーに魅せられていただけではないのか
繰り返しになるが、私にはこの問いが非常に重たく響いたし、とても考えさせられた。
もう一度観に行こうかなと考え始めている私はおかしいのだろうか…。前作同様、マニアックな記事にお付き合いいただいた方に心から感謝いたします。また何か感じたら追記を出すかもしれません笑。やはりこのシリーズは私にとって特別な存在だと感じます。そしてこうやって好きなだけ語れる場があることにも感謝します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?